マヤ遺跡探訪
SANTA RITA
ベリーズ旅行の最後になるサンタ・リタ遺跡は コロサル・タウン北西部の街外れ サンタ・リタ地区にあります。 車でセロスから 戻り 町に入ったと思ったら ものの1-2分で遺跡到着です。

サンタ・リタの歴史は先古典期中期以前に遡り、古典期終末期に主要なマヤセンターが放棄される中も街は維持されます。  そして後古典期後期になりマヤパンが衰退し小国家乱立時代を迎えるとチャクテマル(チェトゥマル)の中心都市 として繁栄を続け、スペイン人の到来を迎えます。

ジャングルに埋もれた古典期マヤセンターに対し、サンタ・リタは街が維持されたが故に 逆にその後の都市化の波に呑み込まれて その姿を消していきます。

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     (訪問日 2009年12月5日)
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 (Área de Santa Rita)

1894年にトマス・ガンが初めてサンタ・リタ遺跡を調査します。 当時はまだかなりの石造建造物が残っていたようですが、19世紀中頃から 続いたカスタ戦争では多くの難民が流入し人口増加が加速され、都市化の流れに更に拍車がかかります。 マヤの建物は道路や住居の材料に 転用され、残念ながら現在では石造建造物を一つ残すのみ。 遺跡へ足を運んでも実際あまり見るべきものはありません。

写真はその石造建造物が残るサンタ・リタ地区の丘で、ここだけ緑が残され遺跡が保存されています。 残された建造物は右の写真の木々の 向こうに。

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 (Estructura 7)

これがたった一つ残った建造物7、小高い丘の頂上部分を少し掘り出してあるという感じで、建物の入り口が露出しています。

このサンタ・リタ、係員もガイドも不在、勿論入場料の徴収もありません。 週末には地元の人達の憩いの場になるようです。

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 (Estructura 7)

建造物7 は古典期前期の建造物だそうですから、建築資材を探した時代には既に土に埋もれていて破壊を免れたのかもしれません。  サンタ・リタと言うとだいたいこのアングルの写真が示されるようです。

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 (Estructura 7)

入口の鴨居部分の木材は当時のものではなく 明らかに修復されています。 あまり資料が見つからず建造物7 の 元々の姿はわかりませんが、内部はマヤアーチの天井や入口、通路などが複雑に組み合わさっています。

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 (El interior de Estructura 7)

建造物7 の細部。 入口を入り正面の壁に奉納品か副葬品を納めたような窪みが残されていますが、この建造物7 からは2つの埋葬が 発見されているそうです。 埋葬のひとつからは翡翠を含む豪華な副葬品が見つかり 古典期前期のサンタ・リタの貴族を葬ったものと 考えられます。

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 (Máscara de Jade de Santa Rita)

副葬品の翡翠はベリーズ・シティーの博物館に展示されていますが、こんな場所からこれ程素晴らしい副葬品が発掘されたとは 驚きです。 腰から下げたと思われる翡翠製の仮面ですが、左の緑の濃い方がサンタ・リタ出土で 150-300AD のものと推定 されます。 (右はカハル・ペチ出土)

この仮面の存在は重要で、交易ルート上の重要な位置を占めるサンタ・リタが富を蓄積し、古典期前期には王権を有するマヤの有力 センターのひとつとなっていた様子が窺い知れます。 遺跡は消えてしまっても残された遺物からその横顔が見えてくると言う訳です。

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 (Estructura 7, lado trasero)

残った建物をもう少し見てみます。 建造物7 の内部にあるマヤアーチ形の通路を抜けると屋根は喪失されていますが別の部屋に 繋がっていたようです。 階段を登り上の基壇に出て写真を撮ってみました。 建物の側面と裏面、写真を2枚合成してあります。

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 (Estructura 7, lado trasero)

正面居室の裏側、ここも屋根を持つ居室だったでしょうか。 これは合成できなかったので写真2枚で。

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 (Estructura 7, parte superior)

建物の上部の合成写真。 細長いベンチ状の構造物が残りますが、ここも居室跡で上部が失われたのでしょうか? とにかく ガイド不在、資料も見つからずに詳細不明です。

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 (Estructura 7, área de entrada)

建物の上部から入口方向を見下ろしました。 なかなか複雑な構造をしてますが、神殿だったのか或いは宮殿なのか?

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 (Zona alrededor del sitio Santa Rita)

建造物7 の周りに残された緑地の中にはまだマヤの建造物が埋まっているように見えます。  発掘すると何が出てくるのでしょうか。



サンタ・リタまで足を運んでも目にする事が出来たのはここまで。 遺跡が殆ど消えてしまっているので止むを得ませんが、 後古典期にチャクテマルの中心だったサンタ・リタの痕跡は全く見当たりせん。

1894年にトマス・ガンがサンタ・リタを調査した事は既に触れましたが、建造物1と名付けられたところから後古典期の彩色壁画が 発見され、その模写が残されています。  雑誌 Arqueologia に その模写が掲載されていたので、最後にこれを紹介しておきます。


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 (Arqueología Vol. 93, Página 60)

Arqueologia Vol. 93 の 60ページ目からサンタ・リタの壁画(写真左)が紹介されています。 後古典期には交易活動を通じて文化の 交流も進み、ここに描かれた壁画はメキシコ中央高原の ミシュテカ・プエブラ様式を汲むそうで、古典期の壁画とは明らかに様式を 異にします。




残念ながら壁画が描かれた建造物1 はもう存在しないようですが、模写からでも後古典期サンタ・リタの繁栄の一端を垣間見る気がします。

先古典期中期から古典期、後古典期を通して生き延びたサンタ・リタは、スペイン人到来までに 2500年以上の歴史を有した事になり、 数あるマヤ遺跡の中でも特異な存在となります。   


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 (Estructura A-11, Palacio)

無事ベリーズの旅を終え 帰途につきます。 写真は陸路でメキシコへ戻った時の国境の橋。