マヤ遺跡探訪
CHINKULTIC
チンクルティックはコミタン市東方 50Km、グアテマラ国境からは 10Km のところにある古典期後期に栄えた遺跡で、 文献には後古典期前期まで街は維持されたとあります。 チアパス東部高地には、テナム・プエンテ、フンチャビン や テナム・ロサリオ といった遺跡もありますが、チンクルティックはこの地域の重要なマヤセンターのひとつだったようです。

遺跡はグループ A、B、C、D に分けられますが、グループ A の セノーテと湖に囲まれた小高い丘にそびえる神殿が印象的で、円盤の マーカーで有名な球戯場もあります。

                  画像

今回 2004年に次いで二度目の訪問でしたが、テナム・プエンテ同様 木々の成長が著しく、写真は前回の方が撮り易かった かもしれません。

                                       画像
    (訪問日 2016年 2月22日、2004年 2月14日)
画像
画像
 (Entrada a la zona arqueológica)

遺跡に車を乗り入れ、入り口の事務所を通り越して車を停めます。 入場料を払いに事務所へ行きましたが何と無料。  以前に来た時は写真右奥の小屋で入場料を払ったのですが、事務所が新築された割には入場料徴収がなくなり、でも遺跡の方は 新たな修復はありませんでしたが。

画像画像

                                 画像
左はチンクルティックのミニガイドからスキャンした地図で、加筆してあります。 Web 検索で探したら  PDF 資料 に詳しい地図があったので お借りしました。 グループ名の他に建造物番号も記載されており、MAP アイコンをクリックすると大きな地図が開きます。


画像
 (Vista aérea de Chinkultic por Google Earth)

航空写真 (Google Earth) で確認してみました。 中央上端にグループ A、下部に球戯場が確認出来ます。 モンテベリョ湖沼群の西端になり、 グループ A はふたつの湖に挟まれた丘の上です。

画像
 (Panel de explicación de Chinkultic)

遺跡に行く前に入口事務所前にあった説明を見ておきましょう。 西にチアパス高地とグリハルバ上流域の盆地、北東にラカンドンの森があり、 東部に広がるグアテマラ高地への入口としての要衝を占め、西暦 700年頃にかけて街が形作られたそうです。 遺跡はグループ A、B、C、D に分けられますが、以下入り口近くのグループ D から見て行きます。

グループ D   Grupo D
画像
 (Montículo de Estructura 20, Grupo D)

入口から北に進むと緑に覆われた大きな土塁が見えてきます。 これはグループ D の建造物 20 になり、建物の基部には石組みが 露出していますが未修復のままで、12年前に来た時と比べると木々が更に鬱蒼と生い茂ってしまいました。

画像
 (Sillares grandes en la base de Estructura 20)

これは基部の石組みで 2004年の写真です。 長さ 2m を超す石材も用いられた立派な建造物だったようで、遺跡に来て 最初に出会う建物ですから是非修復して貰いたいものです。

画像
 (Hacia Grupo B)

建造物 20(写真右) の北側には グループ B の建造物 19 の裏側(写真左)が見え、グループ D は他に見るものは無く、 グループ B へ向かいます。

グループ B   Grupo B
画像
 (Gran Plaza de Grupo B)
画像

グループ B はチンクルティックの中央に位置し、南北 58m、東西 54m のグランプラサとこれを取り巻く建物群からなります。  写真上は建造物 19 の上から北方向を見たところで、グランプラサの向こうの山の中腹左側にはグループ A の神殿が望め (写真下左)、グランプラサの東側にはチャヌハバブ湖(写真下右) が広がります。

画像
  (Estructura 19)                         (Lado norte de Gran Plaza)

これはグランプラサの南側(写真右)で、階段の手前右に建造物 18 の基部、その左奥に建造物 19 (写真左) が修復されています。

画像

画像
 (Arriba: Estructura 17 en el centro de Gran Plaza, abajo izquierda: lado oeste, abajo derecha: lado este)

グランプラサは東西と南側が観客席に利用されたと思われる階段で囲まれ、祭礼など様々な行事が行われた劇場空間のような役割を 持っていたようです。 中央に小さな矩形の基壇 (建造物 17) があり、北側は3つの同じ形の神殿 (建造物 13、14、15) で閉じられます (写真上)。 下の写真2枚は広場西側と東側の階段で、東の階段上部には南北に長い建造物 16 が設けられていました。

画像
 (Estructuras 13, 14, 15 en el lado norte)

北側の3つの神殿を撮ってみましたが、高木に邪魔されて建物の形状がよく見えません。

画像
 (Lado norte en 2004)

これは 2004年に横から撮ったもので、雑草も少なくスッキリしていました。 チンクルティックの発掘修復は 1970年代に始まりましたが、 1992年版のミニガイドではグランプラサは未修復と書いてあったので 90年代に修復されたものと思います。

グループ A へ   Camino para Grupo A
画像
 (Camino hacia Grupo A)

グループ B の北西側から北方向にグループ A へ行く道が伸びています(写真左)。 途中にチャヌハバブ湖に注ぎ込む小川を を渡りますが(写真右)、目指すグル―プ A の神殿はまだ先です。

画像
 (Estructura 1 de Grupo A, vista desde el camino)

小川の先はグループ A になり、開けた所から見上げると丘の上に築かれた神殿が幻想的です。 これはグループ A のアクロポリスの 中心になる建造物 1 で、望遠でクローズアップしてみました。  神殿まではまだ距離があり、高低差も 50m 以上あります。 石材を運び上げるのはかなりの労力を要したでしょうね。

画像

画像
 (Subida a la Acrópolis de Grupo A)

小川の先は途中までは比較的平坦ですが、後半は写真のような急階段を登っていくことになります。 写真左上 は階段を登り始めた所で、曲がりくねった先は横の写真のような階段が続き、最後に左の方へカーブしながら 登っていくとやっと石組みが見えてきます。 海抜 1500m 位なので結構ハードワークです。

画像
 (Cenote Agua Azul)

階段を登り切ると右手に「青いセノーテ」が見下ろせます。 1970年にポンプで水位を下げて調査が行われ、多くの奉納物が回収されましたが、 土器、香を焚く樹脂、翡翠の珠、斧、黒曜石のナイフ、遺骨などと共に雨の神チャークを模した奉納品が多く発見されたそうです。

セノーテは 石灰岩の地層の間を流れる水流が 地表の陥没で池のように露出したもので、もともと地下の水脈と繋がっていましたが、  青いセノーテは周りの湖より水位が高く、雨水を貯めた池のように見えます。

グループ A   Grupo A
画像
 (Altares en frente de Estructura 1)

さて階段を登り切って丘の上のアクロポリスに着きました。 手前に3つの矩形の祭壇が並び、後ろには遠くから見えていた建造物 1 が控えます。  建造物 1 はグループ A の中心になる神殿で、1992年発行のミニガイドの写真では既に今見る姿に修復されていました。

画像
 (Parte frontal de Estructura 1)

正面から見た建造物 1 、中央階段前にも祭壇がひとつ設けられています。 階段両脇には幅広の手摺り部分があり、 典型的なチアパス東部高地の建築様式を示します。 五層の基壇の上部三層は軒蛇腹で縁取りされており、異なる建築時期を表すようです。

画像
 (Foto panorámica de Estructura 1)
                                                   画像

丘の頂上の狭いエリアに建てられた建造物 1 は全体が1枚の写真に収まらないので2枚の写真を合成しました。 「写真拡大」 アイコンで 大きな画像が開きます。 高さはそれ程ありませんが 均整の取れた美しい神殿です。

前回来た時は建造物 1 は上まで登れたのですが、今回残念ながら正面に柵が設けられていてガッカリでした。 上部には居室跡があり、何より チンクルティック全体を見下ろせる絶好のポイントだったのですが。  と言う訳で以下 前回来た時の写真です。

画像
 (Tres altares vista desde la cima de Estructura 1, foto en 2004)

神殿に登り正面を見下ろすと、階段前に付けられた祭壇と3つ一列に並ぶ祭壇、更に右側の祭壇の先には下の広場にある建造物が 見えました。

画像
 (Laguna Chanujabab vista desde la cima de Estructura 1, foto en 2004)

東方向に目を転じると遠くにチャヌハバブ湖が広がり、手前にはアクロポリスで二番目に大きい建物が見下ろせました。 青いセノーテは この建物の直ぐ下になり、奉納物はこの建物からセノーテへ投げ込まれたようです。

画像
 (Grupo B vista desde la cima de Estructura 1, foto en 2004)

同じく神殿 1 の上からチャヌハバブ湖の右の方にはグループ B のグランプラサが見えたのですが、今回 木々が成長した事もあってか、 広場も建物も殆ど目に入りませんでした。

画像
 (Laguna Tepancuapan vista desde la cima de Estructura 1, foto en 2004)

こちらは南東方向で、祭壇の先にもうひとつの大きな湖のテパンクアパン湖が広がります。 建物の下からも見えますが、やはり 高い所から見下ろした方が迫力があります。

画像
 (Conjunto sur de Grupo A)

グループ A には東と南にも建物群がありますが、東側は全く未修復、南も部分的な修復に留まります。 写真左は南のグループの 大きな建造物跡、ただの森にしか見えませんが。 右の写真の奥は建造物 4 で、アクロポリスから見えていました。

画像
 (Acrópolis vista desde conjunto sur)

建造物 4 の上から北の方を見上げるとアクロポリスが望め、自然の丘を造成して石材を積み上げて空間を作り、その上に神殿が築かれた 様子がわかります。 残念ながらこれは 2004年の写真、現在はもっと木々が成長して視界が悪くなっています。

グループ C   Grupo C
画像
 (Camino a Grupo C)

さて最後に球戯場があるグループ C です。 前回は入口まで戻り南側から回り込んで行きましたが、グループ B の南角から北側を 通っていく道が作られていました。

画像
 (Vista exterior de Juego de Pelota)

球戯場の西側に出ました。 写真左側が外から見た球戯場で、外壁の中に球戯面があります。

画像
 (Juego de Pelota, vista desde norte a sur)

球戯場に降りて北側から南方向です。 周囲が高い壁で広々した感じはありませんが、南北の長さはテナム・プエンテの球戯場より大きいようです。  球戯場は東西も南北もシンメトリックに作られるのが普通ですが、チンクルティックの球戯場は独特で、東西方向は凡そ対称ですが 南北方向を見ると下に図示したように北側が頭でっかちで、変型のダブル T 字型です。

画像 画像
                       (Escultura protegida)

球戯場の西側の斜面の下に保護の為の屋根がありますが、下には右の写真の石彫りがあります。 縦長で横向きの人物が彫られているので 石碑だと思いますが、上の基壇から崩落したのでしょうか? 屋根はあっても風化の一途です。

画像
 (Juego de Pelota, vista desde sur a norte)

こちらは南側から北方向を見たところで、手前に見える南側の球戯面は頭でっかちの北側と比べるとかなり狭くなっているのが わかると思います。

球戯場の東側は緑で覆われた小山になっていますが、地図や復元画を見ると山の上は整地されて広場を囲む建物群があり、 ここがグループ C の中心だったようです。 是非発掘修復して欲しいですね。

画像
 (Marcador colocado en el centro de Juego de Pelota)

また方向が逆になって恐縮ですが、北から南方向です。 東西の斜面に囲まれた球戯面の中央に円形のマーカーが置かれています。  チンクルティックの球戯場マーカーはメキシコ市の人類学博物館に展示されている円盤が有名で、これはその位置を示すレプリカでしょうか?

画像画像
 (Famoso disco de Chinkultic, Museo Nacional de Antropología e Historia)

これが人類学博物館に展示されている直径 56cm の円盤で、何故これ程綺麗な状態で残っているのか不思議です。 近くの農場で見つかったそうですが、 中央に刻まれた神聖文字はチンクルティックの王と読めるそうですから、この球戯場に置かれていたものでしょう。 王が腰で球を打っている 場面で、周囲に刻まれた暦は 9.7.17.12.14.11. 11ix, 7zotz と西暦 591年の日付を表し、古典期前期末のものになるようです。  大きな球戯の球には頭部が刻まれ、マヤ神話に出てくる双子の兄弟のフンアフプの頭と考えられるそうです。

画像
 (Lado oeste de Juego de Pelota)

球戯場の西側には広場が広がり 土塁が幾つもありますが、未発掘の建造物です。 球戯場を閉じる西側の壁の上や広場の周囲に幾つもの石碑が 並び、広場は石碑の広場とも呼ばれます。

チンクルティックの石碑   Las Estelas de Chinkultic
チンクルティックではチアパス東部のマヤ遺跡の中で一番多くの石碑が確認されており、大半は風化して解読が難しい状態ですが、 最後にチンクルティックの石碑がどんなものでどんな状態なのか見てみましょう。

画像
 (Ubicación y dirección de las estelas)

これは 遺跡に残された石碑の撮影場所と方向を Google Earth 上に示したもので、 GPS は多少位置がずれますが凡そ石碑の分布がわかります。  深緑色のこんもりした所は未発掘の建物跡と思われ、建物の前に石碑が建てられていたようです。

   画像  画像
    (Estela 7)

球戯場の中に石造物が横たえられていましたが、これは石碑 7 になるようで、地図があった Web 資料にこの石碑の模写もあったので 比較してみました。 直立する王の前で座って服従の姿勢を取っている人物は着飾っているので捕虜ではなく家臣かもしれません。 後ろには 柱が彫られていて宮廷の中のようです。 残念ながら日付や儀礼の内容はよくわかりません。

      画像  画像
       (Estela 17)

これは広場南側で北向きに建てられた石碑 17 で、石碑 7 と似た場面が刻まれているようです。 模写は上と同じ PDF 資料から。

画像
 (Una estela en el norte de la plaza)

これは広場北側に保護されていた石碑で、緑に覆われた建物跡の前の小さな基壇上に建てられています。

画像画像画像
 (Tres Estelas en el extremo norte de la plaza)

広場北側には東寄りに石碑が2本南向きに建てられ(左および中央)、西寄りにもう1本これは北向きに建てられ(右)、 いずれも建物(未発掘の土塁) を背にして 四角い石の土台の上に置かれています。

                       画像
                        (Detalle de extremidad izquierda)

どの石碑も風化が進んでいますが、右側の石碑が図像が一番はっきりしていて、王の左下の人物を拡大してみました。 上の方の石碑 7、 石碑 17 と似通った図像で、王の右手の位置がそれぞれ異なり、何を意味しているのか興味深い所です。

画像
 (Parte superior de la pared oeste de Juego de Pelota)

広場に面した球戯場の西側面には石碑を設置する為の台座のような張り出しが沢山あり、保護の為の屋根も幾つか設置されており、 行ってみます。

   画像
    (Estelas en la parte superior de la pared oeste)

西側面上部で保護された石碑2本です。 左の石碑は図像が彫られているようですが既に殆ど判読不能、右は既に何か書かれていた? と言う状態ですが、こういう所に石碑が設置されていたという点では意味があるかもしれません。

画像
 (Estela en la parte superior de la pared oeste)

西側面上部で更に北寄りの石碑。 画像のシャープネスを上げると 左手にコパルの袋を持った王の姿が浮かび上がってきますが……。

   画像
    (Estela en la parte superior de la pared oeste)

更にその北側。 台座にのっていなければ石碑とはわからないでしょうね、 石碑をのせたような張り出しが他にも沢山あるので、かなりの 石碑が既に失われているのかもしれません。

チンクルティックの石碑で博物館に移されているものも数本あります。

     画像
      (Estela 1, Museo Regional de Chiapas)

これはチアパス地方博物館の展示で、石碑 1 (断片)となっていました。 説明書きには 844年の日付が刻まれ 長期暦で刻まれた最も新しい 日付のひとつになると書かれています。 また、チンクルティックはコミタン盆地の東部を支配し、テナム・プエンテと競っていたと説明されますが、 敵対関係にあったのでしょうか?

   画像
    (Estela 2 y Estela 18, Museo Arqueológico de Comitan)

コミタンの考古学博物館では、やはり断片ですが もう少し状態の良い石碑が見られます。

左は石碑 2 で上部は失われていますが、右手に楯、左手に飾りを持った王の立像が刻まれます。 長い腰巻の上部には風(ik) を表す T 字の飾りがあり、 左足首まで細部が残りますが、史実を語ってくれる文字部分はありません。

右は石碑 18 で、不完全ですが刻まれた図像からは より興味深い場面が読み取れます。 着飾った王が足元の貴族に語りかけており、右手に ぶら下げた猿のような頭部から声が発せられ、貴族の後ろにある柱には鷹が止まっている…、でもやはり史実は読み取れません。

チンクルティックではまだ埋もれた建物が数多く残されているので、今後の発掘次第では新たな文字資料が見つかり歴史の解明が可能に なるかもしれませんが、現時点では王朝の実像はまだ闇の中です。
テナム・プエンテでは北のトニナとの繋がりを示す石造物があり、 一方チンクルティックの石造物はウシュマシンタ川流域からペテン地方にかけての様式との類似性が指摘され、 チンクルティックとテナム・プエンテはコミタン盆地の中で競い合っていた様子も想像されます。


画像
 (Estela 23 a la salida de Grupo C)

球戯場の南側を回って遺跡の入口にもどりますが、もう1本石碑がありました。 石碑 23 になるようですが、これもかなり風化が進んでいます。

画像
 (Gran montículo, posiblemente Acrópolis de Grupo C?)

帰途 球戯場東側の緑の小山が北の方角に見えます。 ここにグループ C の中心がまだ眠っている筈です。 発掘・修復は何時になるのでしょう。  近くに石碑が沢山あるので マヤのアーチ天井のある建造物が出てくると面白いのですが。




画像   画像