マヤ遺跡探訪

PLAN DE AYUTLA ( Sak' Tz'i' ? )
幻のマヤ王国 「サク・ツィ」 の有力候補として注目を集める プラン・デ・アユトゥラ遺跡です。
2001年に地元の人達により遺跡の整備が始まり、2003年に正式に INAH のプロジェクトがスタート、徐々に当時の姿を現してきました。

遺跡はパレンケからボナンパック方向へ車で 140Km、自然豊かな生物保護区の北端にありました。 村の管理下にあり INAH の正式な公開遺跡ではなく正確な場所はわからなかったのですが、近くまで行って案内を頼み何とか到着です。

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遺跡は整備が進む前にかなり盗掘の被害にあってしまったそうですが、建物には当時の漆喰が一部残り、漆喰装飾された 壁面彫刻や神聖文字も見つかっています。

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    (訪問日 2016年 2月24日)
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何故 幻のマヤ王国なのか、遺跡へ進む前に少しサク・ツィ についてまとめておきます。
マヤ語でサクは白い、ツィは犬を意味し、サク・ツィ は白い犬と言う名前の王国になります。

サク・ツィ   Sak' Tz'i'
古典期マヤでは王の事績を刻んだ石碑が各地で建てられます。 石碑の多くはカトゥンの切れ目にそれ迄の王の功績を讃えて作られ、 碑文には即位の記録や儀礼の成就等と共に戦勝や戦争で捕えた捕虜も記されます。  ウシュマシンタ川流域にはマヤの強国が割拠し争いが絶えなかったようで、石碑に残された碑文からは当時の王国同士の敵対関係や 同盟・支配関係などが明らかになりますが、ここにしばしば登場するサク・ツィ と言う名前の王国はその所在地がわからず 謎の王国とされてきました。

サク・ツィ についての記述はピエドラス・ネグラス、ヤシチラン、トニナ、ボナンパック、ラカンハ等の碑文に見られ、 残された断片的な情報を時系列的に並べるとサク・ツィ の歴史の一端が垣間見えてきます。

まずピエドラス・ネグラスの碑文ですが、石碑 26 (628年) と石碑 31 (637年) には ピエドラス・ネグラスがパレンケとサク・ツィ に対して戦争を仕掛けた事が記され、サク・ツィ のカッブ・チャン・テと言うアハウ(王) がパレンケの高位の貴族と共に縛られた姿で 王の足元に刻まれ、その後サク・ツィ はピエドラス・ネグラスの支配下に入ったようです。

王国間の戦いは続き 7世紀後半から 8世紀の初め頃にはヤシチランの支配下にあったボナンパックとラカンハをサク・ツィ がその支配下に収め、 トニナとも抗争を繰り返していたようですが、 728年以降再びピエドラス・ネグラスに敗れてその支配下に入り、763年にはピエドラス・ネグラスの属国だった エル・カヨの新王即位をサク・ツィ の王アフ・サク・マーシュが後見した事がピエドラス・ネグラスの石碑に記されるそうです。

その後サク・ツィ はボナンパックとラカンハを支配していたようですが、787年にヤシチランと婚姻関係を結んだボナンパックは ヤシチランの後ろ盾を得てサク・ツィに対して勝利を収め、ボナンパックの壁画の神殿の石板 2 にはヤシチランの楯ジャガー3世 がサク・ツィ のゾッツと言う貴族を捕虜にした場面、石板 1 にはボナンパックのチャン・ムアーン2世が同じくサク・ツィ の アー・ホー・ツェックと言う貴族を捕虜にした場面が刻まれ、其々 787年の 1月6日と10日の出来事で、戦争は4日以上続いた事が 窺い知れます。

では石板が置かれた壁画の神殿内部に描かれた戦闘シーンは 相手がサク・ツィ だったのか? 壁画には戦闘の日付が 792年と書かれており、 787年の戦争とは別のようですが、この頃サク・ツィ はトニナにも敗れて王が捕えられた事がトニナの碑文に残されるそうで、弱体化していた サク・ツィ に対して生贄の捕虜を取る為にボナンパックが再度戦いを仕掛けたとも考えられそうですが、正しいところはわかりません。 凌辱されている捕虜たちはどこから来た人達だったでしょうか?  (下の写真はボナンパック・壁画の神殿の石板 1 と石板 2 です。)

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           (Dintel 1 de Bonampak)              (Dintel 2 de Bonampak)

ここまで全てサク・ツィ 以外の碑文から構成される歴史で、残念ながら盗掘などによりサク・ツィ の側から見た資料はありませんが、 サク・ツィ から流出したと思われる石碑には 864年にサク・ツィ の王が臣下の葬儀を取り仕切った事が記され、ヤシチランとボナンパックに 敗れた後、所謂古典期マヤの崩壊で有力王国が相次いで没落していく中、サク・ツィ は最後までその勢力を維持していたと考えられるようです。

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プラン・デ・アユトゥラへ   Hacia Plan de Ayutla
パレンケのホテルを車で出発、一路プラン・デ・アユトゥラ村を目指します。 国道 199号を南へ下り、 307号との分岐点でボナンパック方向へ 左折、そのまま 307号を 120Km 走ります。 プラン・デ・アユトゥラ村は小さいので標識はありませんが、手前のヌエバ・パレスティーナ という村が少し大きいので国道に標識がありました。 遺跡の位置はおよそ目星をつけておいたのですが何分土地不案内で、途中でタクシーを 見つけて先導して貰います。 パレンケから遺跡までの走行距離は 140Km でした。

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 (Ruta a Plan de Ayutla)

Google Earth にはプラン・デ・アユトゥラ村を通り越した先 (赤い✕印) に遺跡の写真が何枚も張り付けてあるのですが、 これは間違いで遺跡は村の手前 (赤い○印) でした。  (赤線は GPSロガーの当日の軌跡です。)

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 (Desviación hacia el sitio)

プラン・デ・アユトゥラ村の手前に遺跡への分岐点があり、遺跡まで 3Km の表示があります。 真っ直ぐ行くと村ですが、ここを左折。  タクシーの先導を頼んでおいたので迷わずに済んで正解でした。

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 (Parqueo del sitio)

と言う事でまずは遺跡に到着。 タクシーの運ちゃんは遺跡の事はあまり知らないようでしたが、治安面も考えて同行を頼みました。  車を停めた所には勝手に入ったら罰金と書いてありましたが、アユトゥラ村の人がバイクで通りかかり、80ペソ徴収されました。  案内を頼んだのですが忙しいとつれない返事。 運ちゃんと彼のアシスタントを伴い遺跡探索開始です。

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ウェブでプラン・デ・アユトゥラ遺跡のプロジェクト長を務める ルイス・アルベルト・マルトス氏の PDF 資料があり ( mesoweb.com )、ここに地図があったので コピーして持っていきました。  2009年以前のもので多少不正確でしたが、遺跡の全体を見るには有効です。  地図は上が遺跡全体で、左下と右下に西のアクロポリスと北のアクロポリスが拡大され、建物の番号と配置が確認できます。

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 (Zona arqueológica en Google Earth)

Google Earth で空から見ると 三叉路の北側に真ん中が白くなった森がありますが、これが北のアクロポリスで、白く見えるのは遺跡の建物です。  三叉路の西側の森は白い部分が僅かで、こちらが西のアクロポリスになります。

北のアクロポリス   Acrópolis Norte
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 (Area de partida al sitio)

最初に北のアクロポリスから。 写真左は入場料を徴収していったバイクに乗った村人と 手前がタクシーの運ちゃん。  写真右の小山を登り北のアクロポリスへ向かいます。

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 (Subida a Acrópolis Norte)

北のアクロポリスは丘の上部を造成して作られ、直径 180m 程の広さに 19 以上の建物が築かれているそうです。 高さが 45m ある為、 斜面に付けられた階段を登っていきます。 頂上に近づくと木々の間から建物の頭が見えてきて、写真左中央は建造物 2 の上部、 右が建造物 3 の上部でした。

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 (Estructura 4)

階段をおよそ登り切ると目の前に現れたこの建物跡、持っていった地図ではよくわからなかったのですが、帰国後見つけた下の地図で これが建造物 4 だった事が確認できました。 建造物 4 は 800年頃の建物で、一段低い所に設けられていて、台所か食糧庫だったと 考えられるようです。

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    画像   MAP アイコンをクリックすると大きな地図が開きます。

北のアクロポリスは 2009年以降 修復が進んでおり、スペインの考古学誌に上述の プロジェクト長 マルトス氏による新しい記事が掲載され、 これがウェブ経由 PDF版 で入手出来ました。 雑誌は 2015年2月号で、同プロジェクトによる北のアクロポリスの新しい地図があり、 これは以前の地図より正確で助かりました。
記事はこちらから入手可能です。  新しい地図には建造物の平面図が細かく表わされ、見取り図と呼んだ方が適切で しょうか。 一部 建造物番号が振り直されており、以下この地図の建物番号を使っていきます。


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 (Lado sureste de Estructura 3)

北のアクロポリスを登り切って、これは建造物 3 の南東側面です。 五層の基壇を積み上げた上に矩形の建物が建てられていて、 見取り図を見ると 建造物 1、2 とほぼ同じ形をした上部構造だったようですが、残念ながら屋根部分は喪失されています。  建造物 3 が修復されたのは2011年以降で、古い写真を見ると土砂に埋もれた土塁でした。

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 (Plazuela en frente de Estructura 13)

建造物 3 の東側を回り込むと小さな広場があり、屋根が残った建物群が目の前に見えてきました。 正面に大きな戸口が見えるのが建造物 12 で、 右端に建造物 13 が一部見えています、戸口と言っても戸はありませんが。

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 (Estructura 11)

これは東側から見た建造物 12 で、右奥に戸口を開けているのは建造物 11 になるようです。 建造物 12 の屋根の上には建造物 2 の 屋根飾りが見えています。

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 (Lado sureste de Estructura 13)

こちらは東側から見た建造物 13 の南東側面で、独特なフォルムを持つ屋根が印象的です。 写真では見ていましたが、実物を目の前にして ちょっとした興奮を覚えます。 建造物 13 について 詳しくは下の方で。


[ Estructura 12 ]

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 (Estructura 12 y el interior)

建造物 12 の外観と室内の写真です。  手前に階段があり上に登れますが、まず建造物 12 の中に入ってみました。 漆喰が塗られた室内は、左の写真が入って左方向、 右上が正面で右側に奥の部屋に繋がる戸口が見え、右下は広場に面した右側で小窓から光が射し込みます。  屋根が一部崩れていてフラッシュ無しで写真が撮れましたが、奥の部屋は真っ暗でした。


[ Estructura 2b ]

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 (Estructura 20)

階段を登り建造物 2b の前に来ました。 上の写真は正面が建造物 13 ですが、左手前に建造物 2b の右側が見え、下の写真が その左側の入口部分です。 見取り図で見ると建造物 2 と 3 の間に割って入るような形で配置されていますが、古典期後期から 終末期にかけて追加された建物になるようです。


[ Estructura 3 ]

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 (Estructuras 3)

階段を登り切った所で五層の基壇がある南東側が見えた建造物 3 ですが、これはその北東側の背面です。  上部構造の後ろ側は半分残っていますが、屋根部分と南西を向いた正面は失われています。


[ Estructura 2 ]

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 (Esquina este)

建造物 2b からは建造物 2 の東の角が見え、ここだけ屋根の部分の石組みが露出していました。

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 (Lado frontal vista desde sureste)

建物の正面にまわります。 写真は正面を横から見た所で、斜面の上の謂わば崖っぷちに建てられれた建物は正面から写真が撮れません。  ドローンでもあると良いのですが、それにしても斜面から伸びた木々が建物に迫っています。

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 (Lado frontal vista desde oeste)

建物の左側から辛うじて3つある戸口が見えました。 中央階段が中央の戸口の前に付けられていて、斜面には何層かの基壇があるようですが、 良く見えません。

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 (Cuarto interior en el centro)

中に入ると中央に屋根ごと 独立した部屋が設けられ、手前の狭い通路の左右にも中央の部屋を囲む形で室内空間が確保されています。  写真右は中央の部屋の入口左側、左が中央の部屋の左側の外壁になります。 建物内部には色褪せていますが当時の漆喰が一部残されます。

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 (Bóveda de cuarto lateral izquierdo y passillo hacia cuarto lateral derecha)

プラン・デ・アユトゥラでは様々な形式のマヤアーチが見られるとの事ですが、通路から左右の部屋にかけてはアーチが階段状に 作られていました。

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 (El interior de cuarto central)

これは中央の部屋の内部で天井は階段状です。 プラン・デ・アユトゥラでは黒く塗られた室内が一般的だそうですが、ここは鮮やかな色が ないので黒かったかもしれません。

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 (El interior de cuarto lateral izquierdo)

こちらは左側の室内で、古い写真を見ると大きくひび割れして光が射し込んでいましたが、割れ目は漆喰で補強されたようです。

建造物 2 は外壁上部が雑草で覆われてその造りがあまり確認出来ませんが、崩れ落ちた断片から漆喰の仮面で飾られていたようで、 前面に3つの戸口がある点など 全体的に見てパレンケの様式との類似性が指摘されます。 プラン・デ・アユトゥラがサク・ツィだと すると、628年頃にパレンケと共にピエドラス・ネグラスに敗れて捕虜の姿で石碑に刻まれており、建築様式の類似性は頷けるところです。


[ Estructura 1 ]

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 (Parte frontal vista desde sur)

こちらは建造物 2 の西側に並ぶ建造物 1 で、外観はほぼ同じです。 外壁上部はやはり草が茫々と生えていますが、 何とか整理できないものか、登ると崩れる恐れがあるのでしょうか?

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           (Parte frontal vista desde sur)

建物がのった基壇が見えるように縦に撮りました。 建造物 2 より少しだけ高い所にあるようで、基壇も3段か4段見えます。

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 (Fachada frontal)

正面からの写真が欲しくて左から右から試しましたが、これが精一杯です。 前の崖を降りると少しは全体が正面から 見れるのですが、ここはやはりドローンでしょうか。

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 (Entrada del lado izquierdo)

これは3つある戸口の一番左の開口部で、まぐさ部分は修復で補強されているようです。 当時の漆喰が残りますが、オレンジ色は苔か藻の 一種で本来の塗色ではありません。

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 (Pasillo interior hacia izquierda y derecha)
中に入ると建造物 2 同様、左右に伸びる狭い通路があります。 写真は通路の左と右で、天井を閉じるマヤアーチは階段状ではなく平面に 仕上げられている点が建造物 2 と異なります。 建築時期が多少異なるのでしょうか。

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 (Entrada al santuario interior)

内部はマヤアーチの形が違う他は建造物 2 とほぼ同じ作りで中央の部屋はもうひとつ戸口をくぐって入ります。 内部の戸口の まぐさ部分は木材を入れて補強してありますが(写真下左)、修復前は上の写真のように木材が既に失われていました。  補強は行われましたが、左右の脇柱に残された赤い漆喰はもう見られません。 写真下右は内部正面で、右端に横に作られたもうひとつの 小部屋に通じる入口が見えます。
(上の写真は Konoe. W. さんが 2010年5月に撮ったものをお借りしました。 脇柱に赤い漆喰が見えます。)

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 (Bóveda falsa del Santuario interiorl y acceso al cuarto derecha)

写真左は内部の天井で、やはり階段状ではなく平面で仕上げられていました。 写真右は右奥の小部屋に通じる入口です。  中は窓が無く真っ暗ですが どういう目的で使われたのでしょう?

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 (Fachada trasera)

建造物 1 の背面です。 表面の漆喰が残っているので露出している石組みも含めて建設当時の姿を残しているものと思います。

横一列に並んだ建造物 1、2、3 と下で紹介する建造物 13 は古典期前期から古典期後期の初期に作られた建物になるようです。


[ Estructura 6, 7 ]

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 (Estructura 7 y 6)

建造物 1 の裏側には中庭があり、中庭の向こう側に建造物 6 と 7 が並び、右側の建造物 8 と中庭を囲む形で 繋がります。

[ Estructura 8 ]

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 (Estructura 8 y espacio teatral)

2011年から2012年にかけて中庭を囲む一角の探査が行われ、ここがマヤの小劇場だったと言う報告がなされています。  中庭は 24 x 10m の大きさで、建造物 8 は上部を音響効果を得る為か半分取り壊され 床面に二段のステージが作られています。  中庭の周りには観客が座る階段も設けられていますが、120人位の収容が限度で、限られた貴族層などにより祭事、儀礼が執り行われたと 思われます。 劇場とわかっていればもう少し劇場のような角度で写真を撮ったのですが。

発掘調査で劇場が設けられたのは 800-850年頃と推定され、周辺からオカリナや笛など発見され、貴族が着飾って華やかな儀礼が行われた一方、 捕虜の形をした漆喰彫刻なども回収されており、捕虜の凌辱のような儀式も行われたと考えられるようです。


[ Pasillo ]

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 (Pasillo)

ステージの右横にマヤアーチが口を開けていますが、中は通路のようになっていてその先は階段です。 アクロポリスは四層になっていると 書かれていますが、平面図では高さが判らず苦労します。 この写真の次は上の層からのものなので、もしかしたら階段の先は 二層目だったのかもしれません。 側面図が必要です。


[ Nivel Superior ]

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 (Foto panorámica: Estructura 1 en el centro)

北のアクロポリスの西側を一回りして建造物 20 の北側に戻ってきました。 下に降りる前に周囲を見渡してみましょう。  パノラマ合成するとやや歪みますが、左端が建造物 2、基壇上に聳えるのが建造物 1、その右側が小劇場の観客スペースになる 中庭、そしてその右側が建造物 6、7 で中庭が閉じられます。

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 (Teatro Maya)

こちらは上から見下ろした小劇場です。

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 (Estructura 6a, b)

北側を見下ろすと建造物 6 のL字型になった東側( 6a 写真左)に 建造物 13 の窓のない北西側面が迫っていますが、 建造物 6 の方が後から作られたので、限られたアクロポリスの平面にやや無理矢理押し込められた感じです。

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 (Estructura 13)

そして北東側には建造物 13 の巨大な屋根が迫ってきます。 それでは下に降りて建造物 13 へ 行ってみましょう。


[ Estructura 13 ]

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 (Estructura 13 vista desde sur)

下に降りて南側から見た建造物 13、階段と入口のある南西正面と南東側面です。 建造物 13 は 9m 四方、高さ 11.5m で、低層の基壇にのった 独立した建物になり、北のアクロポリスの中心に建てられています。

雷紋のような模様で飾られた巨大な屋根を持ち、プラン・デ・アユトゥラで一番特徴的な建物ですが、マヤ全体を見てもあまり例を見ない 独特な造りの建物になります。

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      (Fachada superior, arriba: lado suroeste, abajo: lado sureste)

写真は上から南西正面と南東側面の屋根部分で、当然 四面とも同じ模様になり、三層になった雷紋が肩衣のように左右に垂れ下がっています。

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      (Palacio de las Grecas, Toniná)

雷紋は写真のトニナの雷紋の神殿との共通性が指摘されますが、屋根と壁の違いこそあれ薄い横長の石の積み重ねて模様を浮立てる作り方は 似ています。 トニナは西へ 70Km 程とパレンケよりも近く、敵味方はともかく交流が深く 文化面や建築面で影響を受けていたとしても不思議ではありません。

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 (Boveda interior de 6.5m)

独特なのは屋根だけではなく内部も特徴的です。 内部は天井の高い部屋が前後に二部屋ならび、写真は手前の部屋ですが、 薄暗いのでフラッシュ撮影でした。 天井の高さは 6.5m に及び (古い資料では 8m と書かれているものもあります。)、 右の写真は上下に写真を2枚撮って合成しました。

壁に開けられた小窓は観測穴で、天井にも小窓があり、太陽の運行の観測に用いられたと考えられるようです。  暗い室内は真っ黒に塗られ、さながら冥界です。 奥の部屋にはグラフィティーが残されるようですが、 暗くて気が付きませんでした。



[ Estructura 11 ? ]

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    (Cámaras interiores)

アクロポリスは四層に入り組んでいて、何処をどう通ったか記憶のあやふやなところがありますが、写真は多分建造物 11 辺り だったと思います。 室内の壁には漆喰も残り、通路や階段で部屋が複雑に組み合わせられます。 


[ Estructura 6 ]

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 (Estructura 6)

建造物 13 の裏側に回ると建造物 6 の正面が見えてきます。 北側は崖で下っていきますが、地図に拠ると少し下がった所に建造物 16 や 建造物 15 が隠れているようです。

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 (Lado sureste de Estructura 6a, b)

建造物 6 の南東側は 6a の入口に通じるだけで袋小路です。 写真左は建造物 13 の北西側面、正面は壁で塞がれます。  建造物 6 の建造は小劇場や建造物 8 と共に古典期後期の最後になるようです。





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 (Estructura 13 de Acrópolis Norte)
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北のアクロポリスは以上ですが、最後に建造物 13 の写真をもう一度。 ”写真拡大” アイコンで大きな画像が開きます。


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 (Bajada de Acrópolis Norte)

建造物 4 の前を通ってもと来た道を下ります。 下の方には停めてある車が見えてきますが、プラン・デ・アユトゥラ、まだ終わりでは ありません。


西のアクロポリス   Acrópolis Poniente
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 (Subiendo a Acrópolis Poniente)

北のアクロポリスを降りて、また向かいの丘を登って 西のアクロポリスへ。 北は高さ 45m でしたが、こちら西のアクロポリスは 65m もあり、階段はありましたが上の方は階段が崩れてしまったのか、瓦礫の山を若者に手を引っ張って貰い何とか登り切りました。


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 (Fachada frontal de Estructura 27)

頂上近くまで来ると建物の石組みが見えてきましたが、後で地図を確認するとこれは建造物 27 の北東を向いた正面でした。 若ければ 斜面をよじ登って建造物 27 の正面に出たところですが、カメラなど荷物も持っているし道を外れるのは憚られました、残念ですが。

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 (Foto panorámica, Estructura 27 y 26)

頂上に近づいて撮った写真を繋いでみました。 建造物 27 の右側に崩れた建造物 26 の残骸も見えます。

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 (Estructura 25)

北西方向には建造物 25 の正面が見えてきました。 前面が土砂に埋もれたままで、修復は行われていないようです。

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 (Estructura 27)

南の方を見上げると建造物 27 の北西側の壁も見えました。

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西のアクロポリスも丘の上を造成して作られていますが、北のアクロポリスや東のアクロポリスのように独立した丘ではなく、南西に伸びる 丘陵の北東端にあります。 アクロポリスの広さは 3000㎡とされますが、上の方で見た Google Earth の画像でわかるように殆どが 緑に覆われていて、遺跡の清掃やマッピングは行われていても 修復はあまり進んでおらず、新しい地図はありません。 見取り図は 推定復元図なので、これを元に想像を膨らませます。


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 (Foto panorámica, Lado posterior de Estructura 26 y 27)

写真を3枚繋いで北東側を再構成してみましたが、中央の一部石組みが見えているのが建造物 27 の裏側で、その左の土塁は 崩れた建造物 26 になるようです。 建造物 27 の正面は 3つあった戸口の少なくとも2つは残っているようですが、次回 行く機会があれば確認です。


[ Estructura 31 ]

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 (Fachada frontal)

西のアクロポリスで唯一当時の建物の外観を保っているのが建造物 31 です。 写真は北東を向いた建物の正面で、手前に祭壇の ような構造物を伴います。

北のアクロポリスは貴族の居住していた場所と考えられるのに対して、西のアクロポリスは主に祭祀を行う場としての役割を持っていたと 考えられ、建造物 31 は規模は小さいですが重要な神殿だったようで、外観の装飾など凝った作りになっています。

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 (Fachada frontal)

Konoe. W. さんが 2010年に撮った写真が陽の当たる午前中のもので、またお借りしました。 こちらの方が明るく特徴が良く見え、 壁面上部は仮面の装飾が施されていたようです。

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            (Lado trasero con basamentos)

これは西側から見た建造物 31 の裏側です。 三層の基壇が見えますが、下の二層は角が丸い古典期前期に遡る古い基壇で、 更に角の四角い基壇を積み上げ、その上に低層の基壇を持つ神殿が建てられているのがわかります。  神殿自体古典期前期か古典期後期の初めに建てられたもののようです。

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    (Cámara interior)

外壁の装飾を見る前に神殿の中に入ってみます。 内部は暗いのでフラッシュ撮影で、画像左は入って左側、右が右側の壁面です。 アーチ天井は 下の方が曲面になった特殊なもので、黒く塗られた内部の漆喰壁が残ります。

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                (Lado trasero con basamento decorado)

三層目の基壇に上がり南側から見た建物の裏側 (南西側) で、低層の基壇には漆喰成型した彫刻が残っています。  建物裏の通路は狭く 写真は斜めからになります。 

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  (Decoracion de estuco espresando un señor alado)

通路から落ちないようにして正面から部分写真を撮り合成しました。 上は漆喰彫刻の正面で、中央に頭飾りを付けた王と思われる人物が表され 左右に翼が伸びています。 漆喰彫刻は更に左右に伸び、下は漆喰彫刻の右半分で、横向きの顔が描かれているようです。  他の3面にも同様の漆喰彫刻があったようですが既にかなりの部分が喪失されています。

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 (Inscripciones en lafachada noroeste)

神殿の外壁には漆喰を塗った上に文字が刻まれ、北西の外壁面にその跡が残されます。 左の写真で若者が指差しているのが 北西壁面で、指差す先を拡大したのが右側の写真です。

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 (Detalle de inscripciones)

文字が見えるように拡大してみました。 上の2枚はその上の右の写真の中央部で、左の写真の下に右の写真が続きます。  下の写真は壁面の下の方で、碑文が一番まとまって見られます。

碑文は部分的で充分な解読には至っていませんが、古典期前期の古い書体で書かれており、375年の王による建物の奉納文がが書かれていた とする仮説もあるようです。

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 (Inscripcion de Tz'i', perro)

碑文の中には ツィ と言う犬を表す文字があり、欠けている部分を補うと サク・ツィとなり、プラン・デ・アユトゥラが幻のマヤ王国 サク・ツィだったとするひとつの根拠にもなるようです。

碑文は裏側の北東面にも刻まれていましたが、4文字が確認されるだけで、消えてしまった碑文からは何が描かれていたのか知る由もありません。  プラン・デ・アユトゥラがサク・ツィだとする説がある一方、アケと言う名前の王国で ここからボナンパック王朝が現在の場所に移っていった と言う説もあるようですが、更なる発見で早期に論争に決着がつけられと良いのですが。 個人的にはロマンのあるサク・ツィ説に一票です。  



[ Estructura 30, 23, 33 ]

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 (Estructura 33 y Montículo de Estructura 32)

西のアクロポリスには他にも幾つか建造物があり、簡単に写真を紹介しておきます。 写真左は北側から見た建造物 33 で、左手前に見える 丸い基壇は建造物 30 になります。 建造物 31 と凡そ同じ時代に見えますが詳細はわかりません。 右の写真の土塁は建造物 32 に なり、五層の基壇の上に神殿があったようです。

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 (Estructuras 33 y 30)

北のアクロポリスは修復作業が進められたのに対して、西のアクロポリスは雑草が増えていて特に新たな修復活動はないようです。  2010年に Konoe. W. さんが撮った写真だと雑草が少なくもっとスッキリしていました。 左が建造物 33、右が建造物 30 です。



[ Estructura 25 ]

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 (Estructura 25, vista desde sur)

最後に建造物 25 です。 西のアクロポリス北端にあり一番大きく立派な建造物だったようですが、写真の通り基壇は土砂に埋もれ、 建物も半壊したままの姿です。 写真は南側から見た南西側面と南東正面です。

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 (Parte frontal de Estructura 25)

見取り図によると正面には戸口が3つあったようですが、崩れ落ちた屋根の一部が前を塞いでいるようです。  崩れた屋根の左側からは階段状のマヤアーチの室内が覗け(写真下左)、右側からは独立した屋根を持つ内部神殿が見えました (写真下右)。 屋根を持つ内部神殿はパレンケの十字のグループの神殿群を思い起こさせます。

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 (Fachada superior de lado noreste)

建物の右側に回ると壁面上部に施された装飾が見え、大きな仮面などで飾られていたようです。

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 (Foto panoramica del lado posterior)

建造物 25 の裏側は斜面になっていて上にある建造物を支える基壇が露出し、右の方には建造物 33 が見えました。

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 (Vista desde norte)

斜面を少し降りて見上げると建造物 25 の全体が見えてきて、上部神殿の下に建物がもう二層続いていたようで、壁面の 一部は崩れて内部が見えるので、3階建ての建物だったかもしれません。 詳細は今後の調査・修復を待ちたいと思いますが、 とても興味深い建物です。


球戯場   Juego de Pelota
西のアクロポリスから降りて球戯場を探してみました。 球戯場は発掘が行われ、その後遺構は埋め戻されているようですが。

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 (Montículo de Juego de Pelota ?)

三叉路の先にあるこんもり繁った小山が球戯場の遺構の一部だったようです。

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地図で確認してみると上の小山は球戯場の北西側の建造物にあたりそうです。 柵がしてあり中に入れず残念でした。

球戯場は長さが 65m と ウシュマシンタ高地で随一の大きさになり、プラン・デ・アユトゥラが地域で有数の王国だった事が 裏付けられ、また碑文に刻まれたサク・ツィの王カブ・チャン・テが 2カトゥンの球戯者 ( 40年以上統治した長命の王であり球戯者) と形容され、球戯が重要だったサク・ツィの球戯場がここであり、 プラン・デ・アユトゥラがサク・ツィ王国だったと言う説の傍証にもされるようです。

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 (Estructura 40)

球戯場の南の角に建てられた建造物 40 が修復されていますが、これは見落としました。 (Konoe. W. さんが撮った写真です。)

プラン・デ・アユトゥラでは北と西のアクロポリスを見て回りましたが、他に東のアクロポリスもあり、球戯場は3つのアクロポリスの中心に 位置します。  まだ INAH 管轄の遺跡にもなっていませんが、東のアクロポリスや球戯場が整備・修復されて一般公開されるのは何時になるのでしょうか。 プラン・デ・アユトゥラの出自が明らかにされ、遺跡公園として整備されたら、また必ず戻ってこなくてはならない遺跡です。


興味の尽きない幻のマヤ遺跡、今回のマヤ旅行の目玉で、このページも長編になってしまいました。 訪問に当たり Konoe. W. さんから アドバイスを頂き、写真も 5枚お借りしました。 この場を借りてお礼申し上げます。



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