マヤ遺跡探訪
DOS PILAS
7世紀初めにティカル王家から分かれてドス・ピラスに居を構えたドス・ピラス王朝は ペテシュバトゥン地域 に覇権を求めて 戦乱の中心となります。

神聖文字が刻まれた石碑や階段が数多く残され、周辺遺跡からの石碑も併せて 碑文解読による歴史解明が進んでおり、648年頃の王朝創設から 761年の滅亡迄、古典期後期のペテシュバトゥン地域に於ける混乱の様子が浮かび上がります。  679年のティカルに対する勝利を含めた周辺勢力との戦争や、背景にあるティカルとカラクムルの覇権争いなど、興味深い史実も解明され つつあります。

遺跡はペテシュバトゥン湖にある船着場から 12Km 密林を分け入った所で、途中にアロヨ・デ・ピエドラ遺跡があります。  ドス・ピラスへの旅の前半は アロヨ・デ・ピエドラのページ を参照ください。
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     (訪問日 2010年11月25日)
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 (Vista aérea de Región Petexbatún con la ubicación de las ruinas principales)

早朝 ボートでプンタ・デ・チミーノを出発、パソ・カリーベの船着場から馬に乗ってアロヨ・デ・ピエドラに到着。 駆け足でアロヨ・デ・ ピエドラを見学して ドス・ピラスへ向ったのは 8時半過ぎでした。 ここまでまずは順調です。

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 (Viaje hacia Dos Pilas)

アロヨ・デ・ピエドラからドス・ピラスへの道のりは 4Km と聞いていましたが、距離の割には少し手間取ったようです。 雨期は既 に明けていますが、ぬかるみがあったり、小川を越えたり、更にはこんな倒木も。 1本の木が周りの木を巻き込んで道に 倒れ込み 行く手を阻んでいます。 流石のマヌエル君も当惑したようですが、林に分け入り倒木を潜り抜けて何とか先へ。

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 (Llegada a Dos Pilas)

結局1時間弱でドス・ピラスのキャンプが見えてきました。 パソ・カリーベの船着場から、アロヨ・デ・ピエドラでの休憩も含めて 2時間40分。 ガイドも乗馬だったので時間短縮ができたようです。 それにしてもケツが痛い! 馬を降りてやれやれです。

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 (Camp para Arqueólogos)

青緑色にペイントされた木造のキャンプは結構な規模で、調査隊の人数も多そうです。 訪問時は発掘調査のオフシーズンで管理人が 数名いるだけでした。 ガイドを待ちましたが出掛けていて不在の為、地図を頼りにマヌエル君の道案内で遺跡へ。

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 (Acercando a las ruinas)

キャンプから南へ向います。 直ぐに土塁が見えてきて、これは広場北側の建造物の遺構でした。

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 (Plaza Principal de Dos Pilas)

北側の建造物の左には開けた広場が見えてきて、白い石碑も認められます。 地図で確認してみましょう。

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ここは西のグループの中央広場で、初代王バラフ・チャン・カウィール(在位 648-692) の時代に最初に街づくりの行われた所です。  主要建造物と石碑を図示してみました。 北東角から広場に入ります。

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 (Estela 5 de Gobernante 3, U CHA’AN K’IN BALAM)

広場に入って最初の石碑は 石碑 5。 3代目王 ウチャーン・キン・バラム (在位 727-741 AD)のもので、735年にセイバルを 完全に制圧した(王を捉えて生贄に供した) 王として知られます。

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 (Detalle Estela 5)

王の図像の上や側面に神聖文字が刻まれ、それらしく見事に古色を帯びていますが、勿論複製。 実物と思われるものは保護の為の 屋根の下に横たわっていました。

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 (El original de Estela 5)

これが実物と思われるものですが、複製があまり良く出来ているので、これも複製かと疑いたくなります。

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 (Estelas 6 y 7)

石碑 5の横に、石碑がもう2本横たわっています。 これが図示した石碑 6 と 7 (番号だけ)になるようです。 7 の方は屋根もつけられて いないのですが…。

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 (Estela 8 y montículo L5-1)

更に進んで、建造物 L5-1 の前に全面碑文が刻まれた石碑 8があります。 建造物 L5-1 は2代目王イツァムナーフ・カウィールの墓所と 考えられ、石碑 8は3代 ウチャーン・キン・バラム が先代王に捧げたものとされます。

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 (Detalle de Estela 8 réplica)

立っているのは複製の筈ですが、見事な碑文なので上下2枚に切って並べてみました。 数字が沢山並んでいるので先代王の偉業を 羅列してあるのでしょうか。 どこかで解説があったら補足したいと思います。

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 (Montículo de la estructura L5-49)

上で見てきた石碑は広場の東側に並んでいて、南側がこの写真となります。 これは建造物 L5-49 で、3つ並んだ屋根の下に 神聖文字の階段があり、初期のドス・ピラスの歴史が刻まれています。 

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 (Montículos de L5-49 y L4-35 a la derecha)

広場の西側には建造物 L4-35 があり、写真右側に保護の屋根が見えますが、ここにも神聖文字の階段があります。 左端は建造物 L5-49 です。

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 (Vista panorámica de Plaza Principal)

広場の南東隅から北東方向をみると、広場の中央に西から東へ石碑が並んでいるのが見えます。 西側の石碑から順にみていき ましょう。

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 (Estela 1 de Gobernante 2, ITZAMNAAJ K’AWIIL)

これが一番西側にある石碑 1でバラフ・チャン・カウィールの息子で2代目王となったイツァムナーフ・カウィール(在位 698-726 AD) のものです。

激しい戦争が繰り返され混乱を極めた初代王の時代から、続く2代王の時代には戦乱は続くものの比較的安定した時代となり、 東のグループになるエル・ドゥエンデの建設もこの時代に着手されたようです。

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                        (Estela 1)

692年に初代王バラフ・チャン・カウィールが死去した後、698年の2代目イツァムナーフ・カウィールの即位まで 6年の空白があり、この間 イツァムナーフ・バラムと言うイツァムナーフ・カウィールの兄弟が王位を継承していたと推測されますが詳細は不明で、イツァムナーフ・ カウィールが2代目王もしくは支配者2と通称されます。

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 (Estela 2 de Gobernante 3)

次に広場中央にそびえるのが石碑2。 最初に見た石碑 8 同様 3代目 ウチャーン・キン・バラムのもので、735年のセイバルに対する 戦勝が刻まれているそうです。

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                        (Estela 2)

幾つかの破片に分かれて発見されたものを繋ぎ合わせて復元してありますが、後ろに屋根が見え、やはりレプリカのようです。  大きさがわかるようにマヌエル君に横に立って貰いました。 彼の身長からすると石碑は6mを越しそうです。

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 (Detalle de Estela 2)

ウチャーン・キン・バラム王の顔と足元を拡大して見ました。 戦士の装いをした王の足元で踏みつけられているのはセイバルの王 イチャーク・バラムで、セイバルはその後ドス・ピラスの支配下に入り、イチャーク・バラムはドス・ピラスの属王となったようです。

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 (Estela 3)

石碑 2の東側に円形の祭壇を伴う石碑が1本転がっています。 石碑 3にあたるようですが、復元は出来ないんでしょうね?

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 (Estela 4 de Gobernante 4, K’AWIIL CHAN K’IHNICH)

広場中央に並ぶ石碑群で一番東側が石碑 4。 2代目王の息子で4代目王となった カウィール・チャン・キニチ(在位 741-761 AD) が刻まれています。 実物は屋根の下で寝ている方でしょう。

4代目王の時代もペテシュバトゥン地域での騒乱は続き、745年頃 にはヤシチランやモトゥール・デ・サン・ホセとも争ってドス・ピラスの勢力を更に広めますが、761年にタマリンディートの反乱にあって ドス・ピラスでの最後の王となってしまいます。 (ドス・ピラス王朝はアグアテカへ)



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 (Estructura L4-35 con Escalinata 1)

ここまで中央広場にある石碑を見てきましたが、次に神聖文字の階段の方に移ります。 写真は広場西の L4-35 にある神聖文字の階段です。

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 (Escalinata 1)

神聖文字の階段は4ヶ所から見つかっており、この L4-35 のものが神聖文字の階段 1、と呼ばれ、2代目王イツァムナーフ・カウィール の時代の出来事が記されてるそうです。

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 (Detalle de Escalinata 1)

ひとつのステップの高さに3文字分刻まれていて、図像が刻まれたものもあります。 保護の屋根がついているのでオリジナルの階段 かと思いましたがどうも違うようです。


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 (Estructura L5-49 con Escalinata 2)

南側の L5-49 には3ヶ所階段が掘り出されていますが、これは下のイラストで判るように 同じ階段上にあるものでした。 東、中央、西 に各6段の合計18段の階段があり、まとめて神聖文字の階段 2 と呼ばれます。 L5-49 は幅 30m、高さ 25m の建造物だったそうです。

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        (Imagen reproducida de L5-49)

2001-2002年の発掘調査で10段分の階段が見つかって合計18段となり、ドス・ピラス王朝の初期の様子が解読され、従来考えられて きたティカルとドス・ピラスによる王朝内部の抗争と言う構図が、実はティカルとカラクムルという巨大センター間の争いの中に位置づけ られる事が明らかになってきました。

碑文の解読からバラフ・チャン・カウィールが 625年に生まれ、4年後にドス・ピラスへ到着し、その後カラクムルの干渉を受けてティカルのヌーン・ ウホル・チャークと戦争を繰り返し、 672年の敗北ではドス・ピラスを追われ、677年にはまたドス・ピラスを取戻し、最終的に 679年にヌーン・ウホル・ チャークを破って死に追いやった事まで、明らかになりました。

ドス・ピラスは初めからティカルと対立していたのではなく、カラクムルに武力で屈服され、結果として身内のティカルと相争わされる事 になったと言うのが実際のところだったようです。 この背景としてはパシオン川からウシュマシンタ川に繋がる水上交易網を巡る争いが 指摘され、もともとドス・ピラスはこの権益を確保する為にティカルが設けた出先でした。

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 (Escalinata 2 oeste, central y este, réplica)

従来の定説を覆す事になった神聖文字の階段 2 は実際どんなものか、屋根の下を覗いてみました。 上から順に西の階段、中央の階段、 東の階段で、西の階段脇にはパネル 7が、また東の階段脇にはパネル 6が見えます。

階段の発見後、地元の反対で階段の保存が遅れている間に東の階段の4文字分が盗難にあい、すぐさま全ての階段が鋳型で作られた複製 に置き換えられ、実物は安全な倉庫へ移されたそうです。 全て写真を撮り模写が済んでいたのは不幸中の幸いでした。 と言う事は ここにあるのは全部偽物 ! でもまあ現地まで折角足を運んで何も無いよりは、複製でも雰囲気は掴めますから良しとしましょう。

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 (Detalle de Escalinata 2 este y su dibujo)

複製と模写を比較してみました。 実物がどれほど鮮明なのかわかりませんが、これだけ細かく読み取って いくのは根気の要る大変な作業でしょう。 でもこれが新事実の解明に繋がるとすれば価値ある作業と言えます。



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 (Lado sureste de L5-49)

ここまで中央広場に残る建物の遺構と石碑、神聖文字の階段を見てきましたが、ドス・ピラスの中央部は更に南に広がっていた筈です。  この写真は北東方向から見た L5-49 で、この左側を抜けて南の方へ行って見ます。

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 (Parte sureña de L5-49)

L5-49 の裏側は写真の通り鬱蒼とした茂みです。 右の斜面は L5-49 の東側面で、所々彫刻されたパネルが残されますが、それ以外 あまり見るべきものはありません。

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 (Los paneles colocados sobre L5-49)

上は東側面下部に嵌めこまれたパネルで番号はわかりません。 もうひとつ斜面中腹にパネル 10 が残されますが、覆いも無いので 複製と思われます。 これは征服したアロヨ・デ・ピエドラから運ばれたものだそうです。

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                  (Reconstrucción hipotética de Grupo Principal)

想像復元図では L5-49 の裏に神殿が広がり、ここには神聖文字の階段 3 と 4 があった筈ですが、現在は茂みの中のようです。 

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 (Entrada del Sur a Dos Pilas ?)

更に先まで行って見ましたが、道の真ん中に杭が打ってあり、遺跡の看板がありました。 この先は遺跡の外という感じです。 正式なガイドが居ればもう少し案内して貰えたのかもしれませんが、まあ一般的なコースはこの辺りまででしょうか。 手元の 資料では更にエル・ドゥエンデやムルシエラゴスのグループもあるようです。

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 (Dos fuentes, originario del nombre de Dos Pilas)

持参したランチボックスで腹ごしらえをして長い帰り道に備えます。 帰る前にドス・ピラスの名前の由来となった泉を見せて くれました。 キャンプの北西にあたる所で、自然の湧き水がドス・ピラス(ふたつの泉)を作り出しています。

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 (Dos fuentes)

小さな泉ですが小魚も泳いでいたので多分一年中水が湧き出ているものと思います。


苦労して遠くまで来た割には修復されていない遺構と、複製の石造物ばかりで、今ひとつ苦労が報われないような気もしましたが、 でも複製とはいえ石碑はなかなか迫力あり、また遺跡の空気もたっぷり吸って、それなりの充実感を味わう事は出来ました。

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 (Regreso en caballo y lancha)

帰り道はまた乗馬です。坂道で前のめりになったり、のけ反ったり、その度に鞍頭にしがみついて、最後は腹筋が引付けを起しそうに なりました。 鞍が硬かったのか、鞍に接する部分の痛みは言うに及ばずです。

パソ・カリーベに到着するとボートでアロンソ君が待っていて、ふらふらになりながらボートへ。
宿泊地のプンタ・デ・チミーノに帰り着いて時計を見ると午後3時。 早朝の出発から 8時間半の旅となりました。

遺跡の訪問記はここまでですが…。



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 (Estela 9 y 11, Museo Nacional de Arqueología y Etnología de Guatemala)

現地にはあまり見るべきものは残されていませんでしたが、グアテマラ・シティーの国立考古学民俗学博物館にはドス・ピラスからの遺物が 幾つか展示されています。 安全な倉庫に移されたと言う階段の実物はありませんでしたが、素晴らしい石碑が2本あります。

左の石碑は 石碑 9 で、初代王バラフ・チャン・カウィールが彫られた唯一の石碑です。 右手にカウィール神の杖、左手には 羽飾りの付いた丸い盾を持ち、ケツァールの羽で飾られた被り物をつけて、長い髪が布で束ねられて後ろに垂らしてあります。 左上と右下 に残された神聖文字からは王の名前と 682年に執り行った祭事が読み取られるようですが、盗掘者によって石碑がこま切れにされて、下の部分に あった筈の文字記録は失われてしまったそうです。

右は石碑 11 で、こちらは2代目王 イツァムナーフ・カウィール(在位 698-726 AD)が彫られているそうですが、切られた跡があって やはり盗掘の被害にあったもののようです。 上下がなくなっていて碑文は殆ど見えませんが、彫刻の素晴らしさと保存の良さは 沢山展示されている石碑の中でも特に目を引きました。

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 (Platos policromados de Dos Pilas, Museo Nacional)

ドス・ピラスからの見事な彩色皿も2点展示されてました。 特に興味深いのは左の方の皿で、L5-1 で発見されたイツァムナーフ・ カウィールの墓所からの副葬品です。 モトゥール・デ・サン・ホセの紋章文字が描かれているとの事ですが、モトゥール・デ・サン・ ホセはペテン・イツァー湖の北で謂わばティカルの勢力圏です。 この彩色皿は戦利品だったのか、あるいは貢納品だったのか、 今となっては知る術もありません。


次は プンタ・デ・チミーノ です。


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ドス・ピラスについては情報が希薄で、ネットで入手可能だった以下の資料を参考にさせて頂きました。       LA ESCALINATA 2 DE DOS PILAS    FAMSI © 2002: Federico Fahsen