マヤ遺跡探訪
IXIMCHÉ
キチェ県の南にあたるチマルテナンゴ県のテクパンにカクチケル族の都だった イシムチェ遺跡があります。

カクチケル族は ウタトゥランのキチェ族と同盟し、チアバル(現チチカステナンゴ)辺りに居を構えていましたが、1470年にキチェ王国内で 起きた内紛により、キチェ族と袂を別ってイシムチェの地に自らの都を建設します。

同盟者から宿敵に変わりキチェ族との対立関係にある中、1524年のアルバラードのグアテマラ侵入軍を迎え、カクチケル族はアルバラードの ウタトゥラン攻略には協力しますが、程なく イシュムチェ も ウタトゥラン 同様 滅亡の運命を辿る事に…。

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     (訪問日 2010年11月20日)
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 (Punto de desviación a Tecpán y Iximché)

グアテマラ滞在3日目、グアテマラシティーからチチカステナンゴへ向かいますが、途中下車してイシムチェ遺跡を訪問します。 シティーから 幹線道路を西へ1時間半、写真のテクパンに入る分岐点に到着、反対車線のバスの後ろを左折します。

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 (De Tecpán a Iximché)

幹線道路を離れテクパンの町(村?)を抜けて高原の山道へ。 途端に鄙びた田舎の風景になり、牛が道を横切り、道行く人は民族衣装に。

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 (De Tecpán a Iximché)

標高 1500m 位のシティーに比べ この辺りは 2200m を超え、服装は長袖になります。 テクパンの分岐点から約 10分で写真右の遺跡の入り口が 見えてきました。

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 (Entrada al sitio de Iximché)

入り口のカラーの大きな看板には スペイン語、マヤ語、英語の順で 「イシムチェへようこそ」 と書いてありますが、マヤ語はカクチケルの マヤ語でしょうか。

イシムチェはカクチケルの言葉で 「ラモンの木の生える所」を意味し、アルバラードが引き連れたトラスカラ人がナウアトゥル語でこれを  Cuauhtlimallan と呼んだのがグアテマラの名前の言われとも言われ、グアテマラ南部を平定したアルバラードが 1524年 この地に 最初のスペイン人の街 Santiago de Guatemala を定めます。

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 (Estacionamiento de Iximché)

8時にシティーを出ましたが、既に10時近く。 土曜日とあって遺跡の駐車場には大きなコンテナトラックが何台も止まっており、地元の人達が 沢山降りてきます。 急がないと遺跡の静寂はなくなる! 慌てて入場料を支払い、遺跡へ向かいます。

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 (Vista aérea por GOOGLE EARTH)

GOOGLE EARTH で見た イシムチェ。 左上の赤い屋根が遺跡の博物館で、ここを通って遺跡エリアへ向かいます。 イシムチェへ入るのは当時も この北西方向からで、他の三方は谷間で囲まれた要塞都市でした。 (画像クリックで大きくなります。)

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地図は博物館にあったパネルを撮ったもので、北西方向から遺跡へ入ると、広場 A から広場 D と続きます。 言うまでもありませんが、 1470年に築かれたマヤの街で、後古典期後期の最後の時代にあたる遺跡になります。

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 (Área de la entrada)

博物館を通り過ぎると右側にはもう遺跡エリアが広がります。 建物の基部だけで、地図には記載されていません。

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 (Hacia Plaza A)

そして入り口からの道の突き当りから広場が始まります。 手前に説明のパネルが置かれていますが、スペイン語とマヤ語だけでした。

イシムチェは 1960-72年に発掘が行われましたが、1976年の地震で大きな被害を受け、その後修復が行われたそうです。 地震の前が どうなっていて、修復でどの位の人の手が加えられたのか興味あるところですが。

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 (Panel de explicación de Plaza A)

まず最初の広場 A。 地図付の説明パネルがあります。 広場 A は入り口に一番近く公共儀礼に使用され、北側に公共用の長い建造物、 東西に二つのピラミッド神殿、南西側に大きな球戯場があります。 建物に囲まれた広場は 100 x 75m の広さがあるそうです。

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 (Juego de Pelota 1)

これは球戯場 1の北東側の構造物に登り、南西側を見たところです。 長さが 40m の球戯場は全方向が構造物で閉じられ、球戯面は 30 x 7m の I の字型になっています。

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 (Juego de Pelota 1)

上の写真から少し右によって球戯場を斜めから見てみました。 写真の左側、大きな木の下にあるピラミッドが広場 A の神殿3です。

メキシコユカタン半島では後古典期になると 球戯場 は 見当たらなくなりますが、ここグアテマラ南部高地ではミスコ・ビエホにしてもウタトゥランにしても大きな球戯場が残されています。  イッツァー人のユカタンと、トルテカ系のグアテマラ南部高地とはかなり異なる文化を発展させていたのかもしれません。

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 (Plaza A)

南側から見た広場 A のパノラマ画像。 まだ現地の人達は入場していないようで、静かな遺跡です。 綺麗な青空が欲しいところですが、 残念ながら曇り空。 雨に降られた前日のカミナルフユよりはマシですが。   左右に向かい合ったピラミッドは、左が神殿2、右が 神殿3です。

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 (Templo 2)
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これは広場に面した神殿2の正面です。 イシムチェの神殿の中で最も保存が良かったそうで、調査の結果2回の増築が確認されています。  前面の白い漆喰が残るところが2度に亘る増築後の最後の姿で、石材が露出している部分は最初の増築後のものになるようです。

王が変わる度に広場の漆喰を塗り直したり、建造物は新しい建造物で覆ったりしたようですから、イシムチェの短い歴史の中で王が2回変わった 事も考えられます。 イシムチェは 1470年の建設から 1524年のアルバラードによる占領まで僅か 50年余の繁栄でしたが。

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 (Dibujo de Templo 2 y pintura mural)

神殿2は登れませんが、説明パネルにある平面図で上部構造がわかります。 入り口の角柱の後ろには祭礼で火を炊いた跡や催事用具を 収めた部屋もあったようです。 右は最初の増築後に描かれた壁画で、着飾った人物が跪いて祭礼を執り行っている様子だそうですが、 既に風化してしまったようです。

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 (Templo 2)

広場北側の細長い建造物跡から見た神殿2です。 神殿2の左にある低層の方形基壇はツォンパントリと呼ばれる生贄の首を 並べたところで、直ぐ横にある球戯場と祭礼が関連付けられます。

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 (Templo 3)

こちらは神殿3。 4層のピラミッドで、神殿2同様、異なる建築時期のものが露出していて、下のイラストの赤い部分が 最後の改築の後の姿、その上の黄色で示された部分がその前の建築段階だそうです。 肖像付の円筒形の香炉の破片が 大量に発見され、神殿3が祭礼が執り行われた場所である事を示しているようです。
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 (Panel de explicación de Plaza B)

次に広場 A の南に隣接する広場 B。 広場自体は 60 x 30m と小さめですが、広場 A と異なり特権階級の場所だったようで、北東側に広がる 宮殿1は 60m四方、3600㎡ もの広さを持ち、イシムチェの王が住んだ場所と考えられています。 広場の北西に神殿1、南東に3つの基壇 が並び、広場の中央には円形の祭壇があります。

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 (Templo 1)

神殿1は基部が 20 x 15m と大きくはありませんが、全面的に修復が施されています。 背面は広場 A に接していますが、正面は広場 B に 向いていて、王一族の為の特別な儀礼が行われていたようです。

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 (Plaza B)

広場 B のパノラマ画像。 広場の奥が王の住まいだった宮殿1ですが、基部のみで建物は修復されていません。

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 (Alltar Circular de Plaza B)

広場の中央に円形の祭壇があり、祭壇の左が宮殿1で、側壁に切り込まれた階段が見えます。 右奥に見える未修復のピラミッドは 隣の広場 C の神殿4になります。

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 (Estructura 9)

広場の南東側にある建造物9 (写真中央) は来客の宿所として供されたと考えられています。

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 (Juego de Pelota 2)

上の写真を撮った同じ場所から南側には球戯場2が見えてきます(高木が生えている所)。 ここは広場 C の南側になります。

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 (Panel de explicación de Plaza C)

広場 C は東側に横長の建造物があり、南北で向かい合う神殿 4および 5と西側の球戯場 2 で囲まれ、南西に宮殿 2が配置され ます。 広場 A, B は同じ面に位置しますが、広場 C は一段髙い所に設けられています。

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 (División entre Plaza B y C)

写真左は広場 B と C の境目で、左側は広場 B の基壇、奥は神殿4、右の石組みは球戯場2の北西側の壁面です。 右は球戯場2の 説明パネル。

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 (Marcador de Juego de Pelota de Mixco Viejo (izquierda) y de Iximché)

説明パネルでは 球戯場2が球戯場1とほぼ同じサイズになる事が説明され、この球戯場のマーカーと思われるものが、 ミスコ・ビエホの類似のマーカーと共に紹介されていました。 写真左がミスコ・ビエホで撮ったマーカー、右はイシムチェの博物館から。

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 (Juego de Pelota 2)

球戯場2の外壁は修復してありますが、内側はと言うと、写真の通り両側の基壇は表面に石材がなく内部が露出したまま。 奥に見える遺構は 神殿6の背面です。

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 (Plaza C)

球戯場2の北端から見た広場 C 。 広場の奥の両端に神殿 4と 5が見えます。

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 (Templo 4)

こちらが神殿4。  説明パネルが設置されておらず、詳しい事はわかりませんが、一層目だけ修復してあるようで、正面階段前は鉄条網 が張られ登れません。 上部は崩れていて高木がそのまま残されています。

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 (Estructura 38 y Templo 5)

神殿 4と 5の間、広場の東側の細長い建造物は、建造物 38 として説明パネルがあります。
建造物 38 は長さが 68m の複合建造物 で、上部に建造物 36, 37, 39 があったそうですが、残るのは基部だけ。 写真は建造物 38 上から見た神殿 5で、右奥に宮殿 2 が 広がります。

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 (Templo 5)

正面から見た神殿 5。 神殿4同様 上部は崩れていて高木がそのまま残されています。

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 (Pequeña plaza de Paracio 2)

宮殿2に移動し、写真は宮殿の小広場で、左奥に見えるのは神殿 5です。 小広場は 40m 四方の広さを持ちます。

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 (Vista desde Palacio 2 a Plaza C)

画像を繋いでみると、小広場の西側(写真左)に神殿 6が見え、北東(写真右)に神殿 5があり、北(写真中央奥)の神殿 4と、 3つの神殿の位置関係が明確に。 訪問から少し時間がたってしまい、記憶の再構築に有用でした。

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 (Vista desde Palacio 2 a Plaza C)

これは小広場の南東に広がる宮殿の居住区部分。 残るのは基部のみですが、発掘物から貴族の住居や使用人達の区域がわかり、 1526年の火災の痕跡も認められたそうです。

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 (Panel de explicación de Plaza D)

最後に一番南東に位置する広場 D。 一応説明パネルはありますが、考古調査の対象になっていないと書いてあるので、表面的な調査のみ で発掘もあまり行われていないのかもしれません。 

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 (Vista hacia Plaza D)

宮殿2越しにみた広場 D の南東側。 発掘の手が及んでいない廃墟と言えるでしょうか。

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 (Plaza D)

これは広場の東側の角で、芝生で綺麗に整備された公園といった感じです。

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 (Un montículo de Plaza D)

一番高さのある遺構は南西側にあるこの建造物跡で、正面中央の土砂が少し取り除かれていますが、調査の跡か盗掘なのか。

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 (Plaza D)

広場 D のパノラマ画像です。 南西側に宮殿跡があり、広場の位置、建造物の大きさや配置などから、 王に次ぐ副王が居住したところとの推論もあるようですが…。


ここまで広場 A から広場 D まで見てきましたが、広場 D は丘陵の先端で、この先は谷間になり、イシムチェの街はここで終わり。  入り口へ戻ります。

下のパノラマ画像は戻る途中、修復された神殿1を中心に撮ったもので左側には球戯場1も見えます。 画像をクリックすると拡大画像 が開きます。
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 (Vista panorámica de Templo 1 y su alrededor)



ウタトゥランのキチェ族と袂を別ったカクチケル族が 1470年にイシムチェに居を構えた事、アルバラードのキチェ族掃討にカクチケル族が 協力した事は既に書きました。

最後にカクチケル族とイシムチェの最後について少し触れておきましょう。 この辺りはカクチケル王朝の末裔により書かれたものや、アルバラードや コルテスの手になる書簡など、明文化された歴史になってきます。


キチェ族をウタトゥランで制圧したアルバラードは、1524年4月14日にカクチケル族の招きに応じてこのイシムチェの地へ入ります。  鎧兜で身を固め、近代的な武器を持ったスペインの兵隊がこのイシムチェの広場に入場してきたことでしょう。  カクチケル族にとっては束の間の平穏な時間だったでしょうか。 その後アルバラードはイシムチェを離れ、ツトヒル族始め周辺の諸勢力の 軍事的制圧を進め、7月27日にはまたイシムチェへ戻ります。

イシムチェに戻ったアルバラードはカクチケル族を武力ではなく制度的にその支配の下に置きます。 スペイン人にとっては協力者のカクチケル族 も抑圧の対象にしかすぎませんでした。 カクチケル族にとってはは過度な貢納、建築等の使役を強いられ、スペイン人が同盟者という幻想は 見事に打ち砕かれる事になります。

スペイン人達の過度な要求と残虐なやり方に反発したカクチケル族は 9月5日にイシムチェから逃亡を計り、山野に散ってスペイン人に対する 蜂起が始まります。 スペイン人の記録とカクチケル人の記録で、日付や内容で食い違いもあるようですが、その後イシムチェでは 1526年に 火災が起こったり、1528年には反乱が下火になり屈服したカクチケル人が貢納に応じたり、また 1540年には反乱への見せしめでカクチケルの 貴族が処刑されたり、と歴史は続くようです。   


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 (Niños pidiendo la toma de fotos)

着いた時に駐車場で見かけた沢山の現地の人達も、集団での礼拝ではなくピクニックのようで、広い遺跡公園の中に散らばっていった ようです。

写真を撮っている外国人は珍しいのでしょう。 子供たちが寄ってきて写真を撮ってくれとせがみます。 撮った写真を液晶で見せると 大喜び、私は撮って貰っていないと次々に子供たちが集まってきて大変。 写真で魂を抜かれるなんていう迷信はないようです。  明るく屈託のない子供たちの表情は何処へ行って最高です。

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 (Entrada del Museo del sitio)

帰り際に寄った遺跡の博物館、写真はその入り口です。

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 (Maqueta de la ciudad de Iximché)

博物館の目玉はこのイシムチェの立体模型。 赤い小屋根は広場の表示です。 当時のイシムチェの威容は斯くの如く。  遺跡の現状からは想像できませんね。

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 (Exhibición muy limitada)

展示物はあまり目ぼしいものはありません。 もう少し展示物を充実させて説明を加えて欲しい所です。


イシムチェ遺跡での滞在時間は1時間20分。 もう少しゆっくりしても良いのですが、車を待たせてあるし、待っていても青空は 期待できそうにありません。 早くサント・トマス教会も見てみたいし、車に戻って今日の目的地 チチカステナンゴへ向かいます。

チチカステナンゴからはキチェ族が終焉を迎えた ウタトゥラン(クマルカーフ)遺跡 を訪問します。


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