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Monumentos de Copán II   コパン遺跡の記念碑 II
第1部ではコパンの石造技術が頂点に達した 18ウサギ王(在位 695-738年) の石碑8本を紹介しましたが、第2部ではそれ以外の石碑、祭壇を 時代を追って見る中で、コパン王朝の創始から終焉までの歴史を振り返ってみます。

碑文から解読された歴史が遺跡の発掘で考古学的に裏付けられているコパンでは、その碑文が刻まれた石造物は極めて重要です。

  (訪問日 2003年 8月24日、2015年 1月16日)

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コパン王朝初期の石碑  Primeras Estelas de Dinastía de Copán
16代にわたる歴代王の姿が刻まれた祭壇 Q には 426年に王朝を創設した初代ヤシュ・クック・モから王笏を受け継ぐ 16代ヤシュ・パサフ王 が表され、祭壇上面の碑文には王朝の歴史が刻まれますが、祭壇 Q 自体は 776年に ヤシュ・パサフ王により奉納されたもので、王朝初期のものでは ありません。 建造物 16 の内部からはヤシュ・クック・モのものと思われる埋葬が発見されていますが、王の存在を裏付ける石造物も発掘されています。
石碑 63 ESTELA 63 ( circa 9.0.0.0.0 8 Ajaw 13 Kej, Diciembre 9, 435 )
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  (Estela 63 reconstruida en el Museo de las Esculturas)

コパン彫刻博物館の2階北西角に建物の一部と石碑が復元してあります。 1988年 建造物 26 内部の発掘の過程で発見された石碑 63 です。  2代王ポポル・ホルの時代の地下建造物 モッツモッツを取り壊して4代王ク・イッシュが建造物 パパガヨを建造する際に埋納されたもので、 意図的に壊された状態でしたが見ての通り繋ぎ直してあります。 ピラミッドの奥深くに眠っていたコパン初期の石碑を目にする事が出来るのは嬉しい限りです。

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  (Cara frontal de Estela 63)

石碑正面はカレンダーの導入文字から始まって 9 バクトゥン (9.0.0.0.0 ) の日付が刻まれ、下の方の文字は一部喪失していますが、 最後にヤシュ・クック・モの名が記されているようです。

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  (Lado lateral de Estela 63)

側面には後を継いだポポル・ホルの名前が刻まれますが、初代王により建立されたものに後から2代王が自らの名前を付け加えた ものと考えられられるようです。 コパン王朝創設時の古い石碑になり、ヤシュ・クック・モの実在を裏付けるものと言えます。


モッツモッツ神殿の埋葬の蓋石    Disco Marcador "Motmot"
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  (Original y Réplica de Disco Marcador Motmot, en el Museo de las Esculturas)

もうひとつ重要な記念物が彫刻博物館に展示してあります。  建造物モッツモッツから 1993年に見つかった葬室を覆った蓋石で、 実物は表面がかなり掠れていますが、横に模刻が添えられています。

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  (Original y Réplica de Disco Marcador Motmot)

冥界の入口を象徴する四つ葉は中央の碑文で左右に分けられ、左にヤシュ・クック・モ、右にポポル・ホルが向かい合って彫られ、 碑文は十分解読されていませんが、 石碑 63 と同じ9バクトゥンの日付 (9.0.0.0.0 435年) と墓を閉じた日付が記されているようです。  この墓石の下からは豪華な副葬品を伴った女性の埋葬が見つかっていますが、被葬者は不明のようです。


石碑 35   ESTELA 35
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  (Estela 35 en el Museo Regional)

遺跡訪問の拠点になるコパン遺跡村(町と言った方が良いでしょうか?)にあるマヤ地方考古学博物館に石碑 35 と言う古い石碑があります。  いろいろ調べてみましたが、石碑 35 と言うのは何処にも出てきません。 博物館の短い説明文だけが頼りです。

石碑 35 には碑文はなく 両面に像が刻まれます。 顔がはっきりしませんが脚の向きから横を向いた人物像のようで、後代の立体的な像が 前向きに彫られたコパンの石碑群とは明らかに様式が異なります。 碑文が無いので正確な奉納年はわかりませんが、博物館の説明によると 6世紀以前の石碑で、彫られているのは初代ヤシュ・クック・モだろうとの事です。


ポポル・ホルの次の3代王から碑文が希薄になり、後の祭壇 Q や碑文の階段に刻まれた王朝史以外、暫くの間 コパンの歴史を知る手掛かりがなくなります。  東広場 地下トンネル内部で発見された 542年の日付を持つアンテ神殿の階段碑文が 7代王バーラム・ネーンによるものと考えられますが、次の 8代王から 10代王の碑文は見当たらず、11代 ブッ・チャン王の石碑 7 が次に古いものになります。


 
11代 ブッ・チャン王の石碑   Estelas de Butz' Chan

石碑 7   ESTELA 7    ( 9.9.0.0.0 3 Ajaw 3 Sotz', Mayo 10, 613 )
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  (Estela 7 en el Museo Regional)

マヤ地方考古学博物館には入り口を抜けた中庭にも石碑が1本立っていて、これが 11代 ブッ・チャン王の石碑 7 です。  現在のコパン遺跡村はコパンの西の居住区の上に築かれましたが、当時の居住区から発見された石碑が 博物館に立て直されたようです。  ブッ・チャン王の治世は 578–628 AD で、この時代には既にコパン遺跡村まで コパンの居住区が広がっていた事になります。

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  (Cuatro lados de Estela 7)

写真上左は石碑の西正面で、王の肖像が博物館に面した東側の道路から覗けます。 下左が背面、上右が北側面、下左が南側面で、正面以外は碑文で 埋め尽くされますが、9.9.0.0.0 の 9カトゥンを祝って奉納された石碑である事以外、あまり解読は進んでいないようです。

石碑 P  ESTELA P   ( 9.9.10.0.0 2 Ajaw 13 Pop, Marzo 19, 623)
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  (Réplica de Estela P al lado de Estructura 16)

石碑 7 から 10年後のハーフ・カトゥンを祝った石碑 P は 西の広場の建造物 16 前に複製が残され、オリジナルは彫刻博物館に移されています。

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  (El original de Estela P colocado en frente de Templo Rosalila, Museo de las Esculturas)

石碑の建てられた 623年にはまだ建造物ロサリラが使用されていて、石碑 P はその正面北寄りに置かれ、彫刻博物館では復元されたロサリラと 石碑 P が当時の位置関係のままに配置されます。 (写真右手前に石碑の上部が見えます。)

石碑 P は元々別の場所に建てられ、後に建造物 16 の前に移設されたと言う説もありますが、博物館の説明では建造物 16 内部のロサリラの前に 建てられたという事になっています。 ロサリラは10代王 月ジャガーの時代に作られ、18ウサギ王の時代に方形のピラミッドで覆われるまで その姿を見せていたようですから、博物館の説明で齟齬はありません。

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  (Cuatro lados de Estela P)

写真上左が西を向いた正面で、初代王ヤシュ・クック・モの装いをしたブッ・チャン王が表されます。 写真下左の背面と右側の両側面は 全てカレンダーの導入文字から始まり、頭字体の見事なマヤ文字で埋め尽くされます。 保存状態は良好ですが、碑文の解読はカトゥンの終了 を祝った事以外あまり進んでいないようです。 石碑の高さは博物館のガイドブックによると 3.21 m あります。

12代 煙ジャガー・イミッシュ王の石碑   Estelas de Humo Jaguar Imix

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石碑 3  ESTELA 3  ( 9.10.19.5.0  12 Ajaw 13 K'ayab', Enero 26, 652 )
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  (Estela 3)

ブッチャン王の後を継いだ 12代王 煙イミッシュは 在位 628-695 AD とコパン王朝で最も長命の王として知られ、石碑も 18ウサギ王を凌ぐ 11本残されます。 最初の石碑 3 は即位後 24年経った 652年 1月のふたつの儀礼について記されます。

直接カトゥンの終了を祝ったものではありませんが、11カトゥンの丁度 13ウィナル(月)前、つまり260日前の儀礼と、 その10日後の儀礼ですから、大事なカトゥンの終了に関連した儀礼だったかもしれません。

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  (Lado Sur)                              (Lado Este)

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  (Lado Norte)                             (Lado Oeste)

石碑 3 はかなり立体的な彫りになってきていて、コパンで初めて両面に王の肖像が彫られた石碑になり、この様式は次の13ウサギ王の 石碑 C に引き継がれます。 残念ながら顔の部分が両面とも崩れていて王の表情は窺い知れませんが、被り物の飾りから南正面 (写真上左) は冥界(死)で、北正面(下左)が現世(生)を表していると考えられるようです。

石碑 2  ESTELA 2   ( 9.11.0.0.0 12 Ajaw 8 Kej, Octubre 12, 652 )
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  (Réplica de Estela 2)

652年の 11カトゥンの終了に際しては5本の石碑が同時に建立されます。 この内4本は王の肖像が無く碑文だけで、コパンの周辺部に配置されますが、 王の肖像が彫られたこの石碑 2 だけコパンの中心部の球戯場を北で閉じる建造物の上に置かれます。 石碑は広場で断片化した状態で見つかりましたが、 その後立てられていた跡が見つかり、写真の位置が元々石碑があった場所になるようです。 石碑の後ろにあるのはコパン王朝最後の祭壇 L です。

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  (Lado Sur, Original en Museo de las Esculturas)        (Lado Oeste)

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  (Lado Norte)                             (Lado Este)

遺跡に残されているのは石碑 2 の精巧な複製で、オリジナルは遺跡の彫刻博物館に移されており、博物館に入って左手(北側)の通路に 祭壇 Q と共に展示されています。 写真は全て博物館のオリジナルで、上左から、南正面、西側面、北の裏面、東側面です。



石碑 10、13,19 ESTELA 10, 13, 19 ( 9.11.0.0.0 12 Ajaw 8 Kej, Octubre 12, 652 )
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652年のカトゥンの切れ目にコパン周辺部に建てられた石碑4本の内の3本です (石碑 12 は未訪問)。 これ等の石碑については コパン遺跡周縁部の石碑 として別途まとめてあるのでこちらを参照 ください。 他の石碑との比較の為、画像だけ紹介しておきます。

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  (Estela 10)

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  (Estela 13)

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  (Estela 19)


石碑 5   ESTELA 5   ( 667 )
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   (Estela 5)                             (Lado Oeste)

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   (Lado Este)                            (Lado Norte)

652年の次の石碑は 石碑 5 で、コパン遺跡村から遺跡に向かう道沿いにあります。 石碑 3 同様、東西両面に王の肖像が刻まれ、 横幅がたっぷり取られています。 石碑には説明文が添えられていましたが、667年に奉納された事以外詳しい解説はありません。  667年の日付はわかりませんが、次の石碑 1 同様、11カトゥンと4分の3を祝ったものか、それに関連したものでしょう。

石碑 1  ESTELA 1   ( 9.11.15.0.0 4 Ajaw 13 Mol, Julio 26, 667 )
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  (Estela 1 al lado de Juego de Pelota)

9.11.15.0.0 のカトゥンの終了に奉じられた石碑 1 が 球技場の西側にあります。 王は頭にターバンを巻いた姿で表され、 トウモロコシの神の姿をしてカトゥンの終了を祝い、自己犠牲を行い神々に血を捧げて宇宙の再生を願います。
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  (Lado Oeste)

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  (Lado Sur)                             (Lado Norte)

被り物の代わりに頭に巻いたターバンはコパン王に特徴的で、チョルチャ神殿で見つかっている煙イミッシュの王墓の副葬品には ターバンを巻いた歴代王の香炉蓋 (下の写真) が沢山見つかっています。 石碑で王笏を抱える腕は斜め上を向いていますが、18ウサギ王の 石碑では腕は水平で、この腕の形も 18ウサギ王以前の古い石碑の特徴となるようです。 建物に面した石碑裏面の写真を撮り損ないましたが、 碑文が全面に刻まれます。

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                        (Tapa de Incensario del Rey de Copan)


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  (Altar de Estela 1)

石碑 1 の前には 暦の導入文字から始まる碑文が刻まれた祭壇が置かれますが、かなり風化が進んでいます。

石碑 I   ESTELA I   ( 9.12.3.14.0 5 Ajaw 8 Wo, March 20, 676 )
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  (Estela I y Altar en el nicho)

次の石碑は 9.12.0.0.0 のカトゥンの切れ目を飛ばして、9.12.3.14.0 と、長期暦のカトゥンと直接関係ない時期に奉納された 石碑 I (数字の 1 ではなく、アルファベットの I ) で、グラン・プラサを東側で閉じる長い建造物の窪みに納められています。

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  (Lado Oeste)

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  (Detalle de la Estela)

石碑の裏も側面も写真が撮れませんが、模写が可能なくらい良い状態で碑文が残されるようです。 石碑 I では 王は GI神の姿をして 石碑を奉じ、儀礼で呼び出したカウィール神が王笏の横から顔を表しています。 また碑文は石碑 4 でも触れられている 8.6.0.0.0 159年の 神話上の王朝創設についても記されているようです。

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  (Altar circular de Estela I)

石碑 I は大きな円形の祭壇を伴い、立派な頭字体で碑文が刻まれるようですが、内容は不明です。

石碑 6   ESTELA 6   ( 682 ) 
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  (Estela 6)

コパン遺跡村から遺跡に向かう道沿いに石碑 5 と共に石碑 6 が残されます。 案内文には 682年に奉じられたものと説明されますが、 正確な日付は記されていません。 682年は 12カトゥンと2分の1に当たるので、9.12.10.0.0 9 ajaw 18 sotz' の石碑ではないかと思います。  ターバンを巻いた王の姿と全体のバランスが 667年の 石碑 1 とよく似ていますが、同じ製作者によるものでしょうか。

石碑 E   ESTELA E   ( 9.13.0.0.0 8 Ajaw 8 Wo, March 16, 692 )
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  (Edificio E)

長命で 5 カトゥンの王とも呼ばれる 12代 煙ジャガー・イミッシュ王の最後の石碑 E は 9.13.0.0.0 のカトゥンの終了に奉じられた石碑で、 王が没する 3年前でした。 グラン・プラサを西側で閉じる建造物の上にあり、グラン・プラサを自らの石碑の森に作り変えた 18ウサギ王は 自らの石碑群を見渡すように、父王の石碑 E をそのままの位置に残した言われます。
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  (Lado Este)                            (Lado Sureste)

石碑 E は 7代王バーラム・ネーンを懐古する形で煙イミッシュ王ではなくバーラム・ネーン王の肖像が刻まれます。 裏面の写真は撮れませんでしたが、 南北側面同様に碑文が刻まれ、バーラム・ネーン王が行った 9.5.0.0.0 と 9.5.10.0.0 のカトゥンの儀礼が回顧されているそうです。

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 (Altar de Estela E)

石碑 E と対になる祭壇がグラン・プラザのレベルに石碑と向かい合って残されます。 かなり風化していますが、 石碑の奉納についても触れられているようです。


次の13代 18ウサギ王の石碑は 第1部 でまとめた通りですが、 738年の王の非業の最期の後、コパンは低迷期に入ったようで、14代王 (在位 738–749年) の時代には新たな建築も石造物製作も行われず、 次の石碑は 15代王を待つ事になります。


15代 カック・イピヤフ・チャン・カウィール王の石碑 K'ahk' Yipyaj Chan K'awiil

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石碑 M   ESTELA M   ( 9.16.5.0.0  8 Ajaw 8 Sotz, Abril 10, 756 )
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  (Estela M en frente de Escalinata Jeroglífica de Estructura 26)

14代王の後を継いだ息子の15代王カック・イピヤフ・チャン・カウィール (在位 749–763年) は建造物 26 の神聖文字の階段の長い碑文を 完成させ、16カトゥンと4分の1に当たる 756年に階段の前に石碑 M と祭壇を奉納します。 この時代 13ウサギ王を倒したキリグアの カック・ティリウ・チャン・ヨアート (在位 724-785年) の全盛期にあたりますが、コパンとキリグアの関係はどうだったのでしょう?

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 (Cara frontal del lado oeste)                   (Lado trasero)

石碑 M は 18ウサギ王の最後の石碑 D からちょうど20年後に作られますが、それまでのコパン特有の3次元的な彫刻技法が踏襲されています。  同じ 756年に作られた キリグアの石碑 J  はコパンの石碑程 立体的ではないので、18ウサギ王は倒され経済的利権は奪われても、コパンの芸術までは盗まれなかったようです。

王は儀礼を行い先祖や神々を呼び出しますが、階段の碑文にはコパンの王朝史が綴られ、石碑と祭壇とセットでコパン王朝の繁栄を祈願しているようです。

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            (Altar de Estela M)

   石碑の前に置かれた祭壇には聖なる大地ウィッツが刻まれ、左右にパウアトゥン神が配されます。

石碑 N   ESTELA N   ( 9.16.10.0.0 1 Ajaw 3 Sip, Marzo 15, 761 )
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  (Estela N en frente de Gradería de Estructura 11)

石碑 M に続いて 5年後の 9.16.10.0.0 に石碑 N が建造物 11 の北側に奉じられます。 キリグアでは同じカトゥンの切れ目に 高さ 7.3m もある巨大な 石碑 F が立てられますが、 コパンでは立体的で優雅な様式が維持され、芸術的にはこちら上です。

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  (Lado Noroeste)                          (Lado Sur)

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  (Lado Oeste)                            (Lado Este)

石碑 N では南北両面に王の肖像が刻まれ、北を向いた王は水棲のヘビ、南はワニの被り物を付け、自己犠牲を行い精霊を呼び出す様子が表されます。

石碑を立てる土台には 738年に即位した父王 カック・ポプラフから 749年に カック・イピヤフが王位を継承したことが刻まれるようです

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  (Altar de Estela N)

石碑 N の前に置かれた祭壇は石碑 M の祭壇同様、神々や祖先の住む聖なる大地ウィッツが表され、玉座のような造りになっています。


16代 ヤシュ・パサフ・チャン・ヨパート王の祭壇  Yax Pasaj Chan Yopaat
カック・イピヤフ・チャン・カウィール王の時代は短く、763年には 16代ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート王が即位しますが、 ヤシュ・パサフ王の時代はコパン王朝の最晩年にあたり王の没年も定かではありません。 王の石碑は作られず、代わりにカトゥンの終わりには 祭壇が奉納されます。
祭壇 G3  ALTAR G3 ( 9.17.0.0.0 13 Ajaw 18 K'umk'u, Enero 22, 771 )

祭壇 G2  ALTAR G2 ( 9.18.5.0.0 4 Ajaw 13 Kej, Septiembre 9, 795 )

祭壇 G1  ALTAR G1 ( 9.18.10.0.0 10 Ajaw 8 Sak, Agosto 13, 800 )
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  (Tres Altares G en la Gran Plaza)

ヤシュ・パサフ王は幼少にして即位し、カック・イピヤフの子ではなく母系の王位継承とも考えられ、当時は有力貴族が合議の場としたポポル・ナー (建造物 22A) が知られる時代であり、王自身の権力は 18ウサギ王の時代よりかなり弱いものだったかもしれません。 王個人の権力を誇示する 石碑ではなく、小さな祭壇でカトゥンを祝ったのはこうした背景があったからでしょうか。

祭壇 G3、G2、G1 はグラン・プラサの石碑 F と石碑 H の間にまとめて置かれ、写真左の祭壇が G3、手前で横向きになった祭壇が G1、 右端が G2 です。

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 (Altar G-3)

即位8年後の 771年に 17カトゥンを祝った 祭壇 G3 が奉じられ、西面はかなり崩れていますが、写真の東面には 9.17.0.0.0 の奉納日が 確認されるようです。 祭壇の左右には羽毛の生えたヘビが刻まれます。 四角く開いた穴は冥界の入口を表すのでしょうか。

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 (Altar G-2)

17カトゥンと4分の1 には有名な祭壇 Q (775年)が作られ (祭壇 G の後にまとめます)、建造物 11 の上部神殿の完成 (773年) や建造物 16 の最後の改築 (776年)、祭壇 T (783年) の製作等の活動は進められますが、次のカトゥンの記念物は 9.18.5.0.0 の祭壇 G2 になります。

G 2 は G 3 より少し幅広ですが、同じように左右に羽毛の生えたヘビが配され、カトゥンの日付に加えて 763年 の王の即位年も刻まれるようです。

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  (Lado norte de G1, Original en el Museo de Escultura)

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  (Lado norte y lado oeste, Réplica en Gran Plaza)

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  (Lado sur, Réplica en Gran Plaza)

G 2 の5年後の 9.18.10.0.0 (800年)にG 1 が作られます。 G 3、2 より大きく状態が良い G 1 は遺跡の彫刻博物館に移され、 遺跡には複製が残されます。 一番上は博物館にある G 1 の北面、中段が遺跡にある複製の北面と西面、下が複製の南面です。  祭壇は幅 2.5m、高さ 1.4m と比較的大きなものです。

G 3、2 同様 双頭の羽毛の生えたヘビが表されますが、東側のヘビの口からは骸骨顔、西側は生身の顔が覗きます。 北側の碑文には ヤシュ・パサフ王による祭壇の建立の日付が刻まれますが、南側には王の異母弟 ヤハウ・チャン・アー・ベックの名前も残されるようです。  弟は王の一番の補佐役だったかもしれません。


祭壇 Q ALTAR Q ( 9.17.5.0.0 6 Ajaw 13 K'ayab', Diciembre 27, 775 )
ヤシュ・パサフ王の即位 12年後の 17カトゥンと4分の1にコパンで最も有名かつ重要な 祭壇 Q が作られます。 下の写真は建造物 16 の前に置かれた祭壇の複製で、オリジナルは遺跡の彫刻博物館にあります。

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  (Réplica de Altar Q en frente de Estructura 16)

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ヤシュ・パサフ王が自らの王位の正当性を主張すべく、初代王ヤシュ・クック・モと向かい合って王笏を受け取る場面が彫られ (祭壇西面)、 祭壇の4面全体には歴代王 16名の肖像と名前も表されます。 祭壇は玉座のような形をしており、ヤシュ・パサフ王は祭壇の上に ジャガーの毛皮を敷いてこの上に着座したとも考えられるようです。

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  (Lado oeste)   (祭壇西面、左から 2代王、初代ヤシュ・クック・モ、16代ヤシュ・パサフ王、15代王)

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  (Lado norte)   (祭壇北面、左から6代王、5代王、4代王、3代王)

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  (Lado este)   (祭壇東面、左から 10代王、9代王、8代王、7代王)

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  (Lado sur)   (祭壇南面、左から 14代王、13代 18ウサギ王、12代王、11代王)


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  (Parte superior de Estela Q)

祭壇上面の碑文にはコパン王朝初期の出来事が記され、祭壇 Q はコパン王朝の解明に大きな役割を果たします。 祭壇 Q は 1839年の ステファンスとキャザウッドの探検の時に既に見つかっていますが、王朝史が正しく解明されるのは、碑文学が進み トンネル調査で 王朝初期の神殿や埋葬が発見され、碑文が考古学的に裏付けられてからでした。

祭壇 T  ALTAR T  ( 783 )
コパン村の博物館で気になる祭壇がふたつあり、調べてみるとヤシュ・パサフ王の時代の祭壇だったので、コパン王朝最後の祭壇 L に行く前に、 簡単に紹介しておきます。 コパン村の博物館は写真撮影は原則禁止ですが、石造物は撮って宜しいと許可を頂き、撮影出来ました。

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               (Altar T)

祭壇 T は現在の博物館の近くで発見されたもので、ヤシュ・パサフ王の即位後 1カトゥン (783年) を記念した祭壇でした。  祭壇の正面は祭壇 Q に似た図柄で、両側面には神話上の神?を伴う行列が続きます。 祭壇上面にはマヤ神話で陸地を表すワニが大きく 描かれ、博物館の説明プレートには 19世紀末にモーズレイによって描かれた模写が添えられますが、今では風化してしまい、 言われるとワニとわかる程度です。

祭壇 U  ALTAR U   ( 795 )
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         (Altar U)

博物館にあるもう一つの大きな祭壇は 祭壇 U で、正面には巨大な大地の怪物が描かれ、上面と裏面が碑文で埋め尽くされます。  祭壇は 795年にヤシュ・パサフ王により奉じられ、異母弟の ヤハウ・チャン・アー・ベックにより執り行われた祭事が記されるようです。




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  (Entrada a la Tumba de Yax Pasaj)              (Escultura en Mosaico que representa a Yax Pasaj

アクロポリス南東角にある建造物 18 に戦士の姿をした王のモザイク彫刻 (写真右) が残され、建物の下からは盗掘された後でしたが王が埋葬された 墓室 (写真右) が確認されています。 キリグアに残される碑文から 19カトゥンにあたる 810年には存命だったようですが、ヤシュ・パサフ王の 最後については記録がありません。 763年の即位から在位期間は長かったものの、共同統治者の存在や戦士の姿をした彫刻から、 コパン王朝の衰退した様子が窺い知れます。


17代 ? ウキト・トークの祭壇   Yax Pasaj Chan Yopaat

祭壇 L  ALTAR L  ( 9.19.11.14.5  3 Chikchan 3 Wo, Febrero 8, 822 )
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  (Ultimo Altar L)

球技場を北側で閉じる建造物の上に 12代王 煙イミッシュ王の石碑 2 がありましたが、その傍らに 未完の祭壇 L が残されます。  祭壇 Q を模したと考えら、822年の日付で 左側に座るウキット・トーク が右のヤシュ・パサフ王から譲位される場面が彫られますが、 完成したのはこの面だけで、祭壇の他の面は未完のまま放置されており、これをもって繁栄を誇ったコパン王朝も終焉を迎えたと考えられます。



以上、遺跡と博物館に残されたコパンの石造物を通して、初代王ヤシュ・クック・モから王朝最後の王までのコパン王朝史を振り返ってみました。  碑文や図柄の説明は全く不十分だと思いますが、王朝のおよその輪郭を掴み、個々の石造物の理解を深める事で、遺跡訪問をより興味深いものに 出来るものと思います。


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