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MUSEO LÍTICO E HISTORIA DE DINASTÍA TIKAL

         ティカル石碑博物館とティカル王朝史
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 (Museo Lítico en frente de Maqueta de Tikal)

ティカル遺跡の入口に博物館がふたつあり、ひとつはティカル博物館 (Museo Tikal) 、もうひとつがこの石碑博物館 (Museo Lítico)で、  ビジター・センターのティカルの立体模型の奥にあり、発掘の過程で見つかった石造物が集められています。

風化した石ばかりで見た目には地味ですが、ティカルの歴史解明の手掛かりとなる多くの情報を提供してくれる貴重な資料であり、以下、 展示物を見ながらティカルの歴史を振り返ってみたいと思います。

(訪問日 2010年11月27日)  画像

ティカル石碑博物館  Museo Lítico de Tikal
マヤ文字風のデザインでカメラ、ビデオ禁止と表示されています。 残念ですが規則では仕方ありません。

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        (No Camaras ! pero me permitieron sacar fotos sin flash, Gracias !)

でも念の為に係員の人に 「写真はダメなんですよね」 と確認すると、「フラッシュを焚かないなら撮っても構わない」 と寛大な返答を頂きました。  館内は外からの明かりだけで、薄暗くて撮影には向かないからでしょうか。 でも最近の高感度カメラなら何とか撮れます。 \(^O^)/   写真がなければこのページの企画は不可能でした。

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 (El interior de Museo Lítico)

石碑博物館の内部です。 手前の首の無い赤味がかった坐像から奥の窓まで、細長い室内に石碑、祭壇などの石造物が並べられていて、これが博物館の ほゞ全てです。

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 (Panel de explicación de las exhibiciones)

展示物の明細がパネル表示され、古い順に色分けされ、それぞれの館内での位置と実際の遺跡での出所が示されます。

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 (Panel de explicación de las exhibiciones)

このパネルによると23点の展示物が有る事になっていますが、若干現状とは異なるところもあるかもしれません。

上の館内の写真は館内見取り図の左端から右端方向を撮ったもので、見取り図は番号が小さいので振り直しました。 ● 印に赤の数字は祭壇を示し、 それ以外は全て石碑の番号になります。

以下、石造物を通してみたティカルの歴史です。

ティカル王朝黎明期  Aurora de la Dinastía de Tikal
考古学の世界ではティカルの歴史は紀元前に遡り、北のアクロポリスの建造は 350BC 頃に始まったとされますが、碑文に残された歴史では、 ティカル王朝の創始者は紀元後1世紀頃の ヤシュ・エーブ・ショーク  という事になるようです。

これは後の石碑に刻まれた碑文を辿って推定されたもので、実際に日付の記された最初の石碑は、292AD の石碑 29 になり、彫られているのは 「葉のジャガー」王 だろうとの事です。

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 (Estela 29)             (Tikal Handbook por W.R.COE)

石碑 29 は石碑博物館にはなかったので、ティカル博物館にあるのかもしれません。 画像はティカル・ハンドブックからスキャンしました。

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  (Estela 39)

次に石碑に刻まれたのがチャク・トク・イチャーク1世 (在位 360-378AD)で、写真の上半分が失われた石碑 39 です。 石碑は失われた世界の建造物に埋納されていたもので、8.17.0.0.0. (376年) の カトゥンの終了を祝ったものでした。 捕虜を踏みつける王が刻まれるそうですが、石碑左下にある左向きの横顔が捕虜でしょうか。

「葉のジャガー」と チャク・トク・イチャーク1世の間には、『古代マヤ王歴代誌』によると、 「動物の頭飾り」シャフ・チャン・カウィール1世ウネン・バラムキニチ・ムワーン・ホル と 4人の王の名前がありますが、後代の土器に記された王名表によると チャク・トク・イチャーク1世は 14代王とされ、もっと沢山の王が存在した 事になり、この辺りは闇の中です。

石碑建立の 2年後の 378年にはテオティウアカンの勢力としてシャフ・カックがティカルに入ったとされるので、石碑 39 は テオティウカンの 本格的な影響を受ける前の数少ない記念物と言う事になります。

テオティウアカンの影響  Influencia de Teotihuacan
チャク・トク・イチャーク1世の後に、ティカル王朝には、シャフ・カックと投槍フクロウの名前が現れますが、この2人はティカルの王位には 就かず、379年にヤシュ・ヌーン・アイーン1世 (在位379-404?AD)  がティカルの王となったようです。

シャフ・カックはテオティウアカンから来た将軍で、投槍フクロウはテオティウアカンの王その人、と言う推論もありますが、これは飽くまで推論、 確かな事はわかりません。 ただ碑文で確認されているのは、ヤシュ・ヌーン・アイーン1世は父親が投槍フクロウで、シャフ・カックが若い王を 補佐していたとの事。

ティカルにテオティウアカンの勢力が攻め入り、チャク・トク・イチャーク1世を排してティカルを乗っ取ったと言うのは魅力的な仮説ですが、 検証された定説ではありません。 でもこの時代に以前のティカルの文化とは異なるテオティウアカン文化が唐突に入ってきた事は残された遺物 から間違いないところです。

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  (Marcador de Tikal, MNAE))                (Estela 4)

写真左の球戯場のマーカーはグアテマラ国立博物館II のページで紹介済みですが、 投槍フクロウの紋章が彫られ、ティカルにおけるテオティウアカン文化を示すひとつのモニュメントとも言えます。

ヤシュ・ヌーン・アイーン1世は、8.18.0.0.0. のカトゥン(396AD)を祝って石碑 4 を建立しますが、ここでは王は今までのマヤ風の衣装ではなく メキシコ風の装束をまとって現れます。

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      (Hombre de Tikal)

「ティカルの男」と呼ばれるこの坐像もおよそこの時代のもので、背中に碑文が刻まれているそうです、気が付けばしっかり背中の写真を撮ったのですが。  碑文には403AD と 406AD の出来事がヤシュ・ヌーン・アイーン1世の名と共に彫られているようです。 坐像の肩の部分には前の時代のチャク・トク・ イチャーク1世の名前があり(写真を拡大すると文字が確認できました)、古い記念物の使いまわしのようです。 首はいつ取れたのでしょう?

ヤシュ・ヌーン・アイーン1世はマヤの系統をひく女性を妻とし、その間に生まれた子供がその後を継ぐことになり、死後は 北のアクロポリスの 34号神殿地下に豪華な副葬品と共に埋葬されました(埋葬 10)。

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   (Estela 31)                         (Estela 1)

次のティカル王は シャフ・チャン・カウィール2世 (在位411-456AD)で、上述の通り投槍フクロウを父に持つヤシュ・ヌーン・アイーン1世の子供で、母親はマヤの系統ですから、テオティウアカン とマヤの両方の血を引く王と言う事になり、石碑は 31 と 1 が残されます。

石碑 31 は保存状態が素晴らしく、最も美しく見事な石碑で、石碑博物館ではなくティカル博物館の方に展示されています。 ティカル博物館は撮影が駄目 なのですが、2003年に行った時に1枚だけ失敬しました。 m(_ _)m 

33号神殿は全面的に崩れて古い神殿が露出しており、古い神殿を飾った大きな漆喰の仮面を見ることが出来ますが、石碑 31 はこの古い神殿の前に 建てられ、古い神殿を覆う形で新しい神殿建設が作られた時に、古い神殿の内部に埋納された為に、風化を免れたようです。

右は石碑博物館にある石碑 1 で、多少ピンボケですが、明らかに風化の度合いが違って石碑 31 よりは見劣りします。

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 (Dibujo de Estela 31)

図像を見るのは模写の方が分り易いので、Mayas Autenticos の模写をお借りしました。 石碑は正面から左右の側面まで図像が彫り込まれたラップ・アラウンド形式で、正面にマヤの装束をつけたシャフ・チャン・ カウィール2世が刻まれ、左右のテオティウアカンの装束の父王ヤシュ・ヌーン・アイーン1世に挟まれています。(左の父王は右手に投槍器を持ち、 右の父王の左手にはトラロックが描かれた盾のようなものを持っています。)

右の画像は石碑 31 の背面で、マヤ文字で埋め尽くされています。 石碑の建立は 445年になるようで、碑文には 378年のシャフ・カックのティカル到着 からのティカルの歴史が刻まれ、シャフ・チャン・カウィール2世の即位や435年の9バクトゥンの終了の他、439年の投槍フクロウの死について言及され、 マヤ系の歴史としては300AD頃の女王ウネン・バラムについても触れられているそうです。

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               (Dibujo de Estela 1)

石碑 1 の前面と左右側面の模写は石碑博物館にパネル展示されていました。 石碑 31 同様のラップ・アラウンド形式で、王はマヤの装束で描かれて おり、石碑 31 より後になるのかと思いますが、背面の碑文は風化してあまり史実は読み取れないようです。

シャフ・チャン・カウィール2世は石碑 31 が埋納されていた 33号神殿の地下に埋葬されました。(埋葬 48)

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    (Estela 2)                       (Estela 40)

シャフ・チャン・カウィール2世の後、王位は息子の カン・チタム (在位 458AD - ) に引き継がれます。 『古代マヤ王歴代誌』によれが、石碑 2、9、13、40 がカン・チタム王のものとされ、 このうち 2、9、40 が石碑博物館に展示されています。

石碑 2 は破片になって北のアクロポリスの 26号と 33号神殿から見つかったそうで、石碑博物館ではカン・チタムではなく、シャフ・チャン・カウィール 2世のものと表示されており、本と博物館の表示とどちらが正しいのかわかりません。 形式的には シャフ・チャン・カウィール2世の石碑 1 に類似するので、 博物館の表示が正しいかもしれません。

右は 9.1.13.0.0. 468AD の日付を持つ石碑 40 で、1996年に神殿 29でスペインの調査隊が発見したもので、これによりカン・チタム王の誕生と即位年 が特定されたそうです。 実物はこの石碑博物館にありますが、遺跡には複製が置かれています。

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    (Replica de Estela 40)

これがその複製。 北のアクロポリスの低層の基壇を登り一番右(東端)の 29号神殿の前です。 実物より綺麗で図像がはっきりしています。  テオティウアカン風の頭飾りを頭上に掲げているそうですが…。

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           (Estela 9)

もうひとつのカン・チタム王の石碑がこの石碑 9 で、9.2.0.0.0. のカトゥン終了(475AD)を祝ったものです。 カン・チタムが火の神に扮して 前に火を起こす長い杖を持ち、杖の石碑と呼ばれる 新しい様式の石碑になっています。

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         (Estela 3)

カン・チタム王が何時没して、次の王の即位が何時だったのか、碑文では確認出来ないようで、カン・チタム王の墓所もわかっていませんが、王位は カン・チタムの王子であるチャク・トク・イチャーク2世 (在位 -508AD) に引き継がれたようです。

34号神殿前に置かれた石碑 3 がそのチャク・トク・イチャーク2世のもので、9.2.13.0.0. (488AD) に奉納されており、488年には既に即位していた事に なります。

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   (Estela 27)

石碑 27 も同じくチャク・トク・イチャーク2世により、9.3.0.0.0. (495AD) のカトゥンの終了を祝って奉納されました。 石碑 3 も石碑 27 も 前王の石碑の様式に倣って 杖の石碑の様式を踏んでいます。 前面に王が彫られ、左右には神聖文字が刻まれて、背面は無地で残されました。

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      (Estela 8)

もうひとつ杖の石碑の様式を持つ石碑 8 が石碑博物館にありました。 『古代マヤ王歴代誌』ではカロームテ・バラムの後の「鳥の鉤爪」王の ものとして6世紀初めの年代を当てていますが、博物館の表示では 9.3.2.0.0. (497AD) の チャク・トク・イチャーク2世のものと なっています。 様式からもここは博物館の見解を取っておきます。

シャフ・カックが 378年にティカルに入り、ヤシュ・ヌーン・アイーン1世が即位してからチャク・トク・イチャーク2世まで、順調に父子相続が続いて きましたが、トニナの石碑で 508年にチャク・トク・イチャーク2世の死が記されており、ティカルは低地マヤの戦乱に巻き込まれて動乱期に入って、 王位継承も混乱を極めるようです。

チャク・トク・イチャーク2世は王名表によるとティカルの 18代王になります。

ティカル王朝の混乱期  Período de Confusión en Tikal
チャク・トク・イチャーク2世は戦乱により落命したようですが、ティカル王朝は存続し石碑の建立も続きます。 しかし残念ながら壊されたり風化の激しい ものが多く、歴史の解明を難しくさせます。

石碑博物館には見当たりませんでしたが、『古代マヤ王朝歴代誌』によると 石碑 23 がこの時代の様子を物語ってくれるようで、チャク・トク・イチャーク 2世の娘と思われる人物が 511年に6歳で王位に就いた事になっています。 これは 「ティカルの女王」 (在位 511-527AD~)で、同時期に カロームテ・バラム(在位 511-527AD~) も登場し、統治期間が重なる為、カロームテ・バラムは「ティカルの女王」 の夫、若しくは女王を後見していた将軍で、共同統治していたものと思われます。
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  (Estela 14)                        (Estela 25)

9.4.0.0.0. (514AD) のカトゥンを祝った石碑 6 があるようですが、これは石碑博物館にはなく、基部だけの 石碑 14 と上半分の石碑 25 が、石碑博物館に ありました。 両方とも 9.4.3.0.0. と 4カトゥンを祝った3トゥン後(3年後) の石碑になりますが、何を記念したものだったでしょう?

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   (Estela 12)

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   (Estela 10)

更にその10年後の 9.4.13.0.0. (527AD) に石碑 10 と 12 の一対の石碑が残され、両方ともカロームテ・バラムが彫られているようです。  石碑 10 はグラン・プラサの北側、北のアクロポリスの前にあり、石碑 12 もグラン・プラサにあったものが石碑博物館に移されています。

ティカルの女王もカロームテ・バラムもこれらの石碑を最後に記録が途絶えます。

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        (Estela 26)

次に新しい日付として 9.5.0.0.0. (534AD) のカトゥンを祝った石碑 26 がありますが、これは神殿 34 の内部で見つかったもので、画像で見る通り割られて 断片になっており、カロームテ・バラムのものか、或いは次の王の手になるものか不明です。

カロームテ・バラムの次の王は、『古代マヤ王歴代誌』には石碑 8 の 「鳥の鉤爪」王 の存在が示されますが、上述の通り石碑博物館ではこの石碑が 497年となっていて 年代が合わず、解釈にもいろいろ混乱があるようです。

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      (Estela 17)

石碑博物館にある石碑 17 はその次の ワク・チャン・カウィール  別名ダブル・バード(在位 537? - 562AD) により 557年に建立されたものとされます。 碑文からワク・チャン・カウィールはチャク・トク・ イチャーク2世が落命した 508年の初めに誕生した子供で、ここでは何とかティカル王朝の男系相続が維持されたようです。 それにしてもこれだけ風化の 進んだ石碑から史実を解き明かすのは至難の業でしょうね。

その後のワク・チャン・カウィールについて語るものはティカルにはありませんが、 カラコルの祭壇 21 が王の末路を伝えてくれます。 これによると、 553年のカラコルのヤハウ・テ・キニチ王の即位にはワク・チャン・カウィールが優越王として後見しますが、3年後の 556年には一転してティカルが カラコルを攻撃します。 背景としては勢力を増してきたカラクムルがナランホやカラコルを勢力下に治めてきた事があるようです。 そして562年には逆に ティカルが星の戦争を仕掛けられて敗北、ティカルは混乱の時代から復興へ向かうのではなく暗黒の時代へと入ってしまいます。

ワク・チャン・カウィールは王名表ではティカル 21代王で、石碑 17 はティカルにおける古典期前期の最後の石造物となります。

ティカルの暗黒時代  Período de Tinieblas en Tikal
マヤの戦争は総力戦と言うより限られた勢力による襲撃のような形を取り、勝利した後も相手の本拠地を破壊し尽くすような事は無く、権力関係の確認と 権益の確保が目的だったようです。 負けた側も敗北で滅び去るような事はなかったと考えられ、ティカル王朝も存続します。 記録がないので確かな 事はわかりませんが、ティカルがカラクムルへの貢納を求められたと言うような事はあったかもしれません。 (古典期終末期でのアグアテカや カンクエン等は焼き尽くされたり虐殺されたりと例外になりますが。)

ティカル王朝は継続したとは言え、星の戦争における敗北から 695年の次の勝利までの約130年間、カラクムルが地域の覇権を握り、ティカルは低迷期にあった と考えられ、ティカルでは新たな記念石造物は作られなくなります。 王朝が続いたなら石碑のひとつやふたつ作れそうなものですが、カラクムルが 石碑建立を禁じたのか、或いはカラクムルの傀儡政権になったのか。

想像は膨らみますが、この間のティカルの様子は石造物ではなく彩色土器に記された記録が頼りになるようです。 これによるとワク・チャン・カウィールの 後 「動物の頭蓋骨」王 (在位~583-628AD~)が王位を継ぎ、 23代王24代王 と名前のわからない王が続いて、 ヌーン・ウホル・チャーク (在位~657-679AD?) の時代を迎えます。

ヌーン・ウホル・チャークは、ティカルから分かれてドス・ピラス王朝を開いたバラフ・チャン・カウィールとティカル王朝の正当性をかけて 骨肉の争いを繰り広げる事になります。 ヌーン・ウホル・チャークについての記録はティカルには殆どなく、ドス・ピラスの神聖文字の階段2にその 足跡が残されていました。  詳細はこちら。

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                     (Escalinata jeroglífica 2 de Dos Pilas)

両者の戦いは勝ったり負けたりで、672年にヌーン・ウホル・チャークがバラフ・チャン・カウィールを打ち破りドス・ピラスを手中に収めてバラフ・ チャン・カウィールを追放しますが、677年にはまた形勢が逆転し、ヌーン・ウホル・チャークはドス・ピラスを追われます。 そして 2年後の679年、 ヌーン・ウホル・チャークは最終的にカラクムルとドス・ピラスに決定的な敗北を被り、恐らく生贄にされたものと思われます。

ティカルの復興と繁栄  Restablecimiento de Tikal
ヌーン・ウホル・チャークの敗北後、 682年に息子の ハサウ・チャン・カウィール1世 (在位 682-734年) が即位し、ティカルの復興に努めたようです。

そして 695年、130年間に渡る暗黒時代の原因となった宿敵カラクムルを ハサウ・チャン・カウィール1世が ついに打ち破り、カラクムルのイチャーク・ カーク王は捕獲されて生贄に供されたようで、ティカルとカラクムルの力関係は逆転してティカルの復興と繁栄が始まります。

ティカルで最も有名な 1号神殿(写真下左、右は 2 号神殿)を始めティカル遺跡に足を運んで目にする建造物の多くは この時代以降に建設、或いは改装 を施され、1号神殿の屋根飾りにはハサウ・チャン・カウィール1世の坐像が飾られ、上部神殿内の木製建築材にはカラクムルに対する勝利も刻まれます。

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 (Templo I)                        (Templo II)


マヤの記念碑は 20年毎のカトゥン の終了を祝って作られるケースが一般的で、 ここまで見てきた石碑も多くが カトゥンの変わり目に作られています。

石碑 39  8.17.0.0.0. 376年  チャク・トク・イチャーク1世 (在位 360-378AD)
石碑 4  8.18.0.0.0. 396年  ヤシュ・ヌーン・アイーン1世 (在位379-404?AD)
石碑 31  9.0.10.0.0. 445年  シャフ・チャン・カウィール2世 (在位411-456AD)※
石碑 9  9.2.0.0.0.  475年  カン・チタム (在位 458AD - )
石碑 27  9.3.0.0.0.  495年  チャク・トク・イチャーク2世 (在位 -508AD)
石碑 26  9.5.0.0.0.  534年  カロームテ・バラム (在位 511-527AD~)  ?

※ 9.0.10.0.0. は 9バクトゥン(9.0.0.0.0.)終了から 10年(10トゥン)後のハーフ・カトゥンを祝ったものになります。


石碑 26 以降、ティカルは暗黒時代に入って石碑がなくなりますが、7世紀後半から、カトゥンの終了を祝って双子のピラミッド複合が建設され、ここに石碑と 祭壇がセットで奉納されます。 (各複合の位置は下の地図の通りです。)

複合L 9.12.0.0.0. 672年 石碑P41 祭壇P43 ヌーン・ウホル・チャーク (~657-679AD?)
複合M 9.13.0.0.0. 692年 石碑 30 祭壇 14 ハサウ・チャン・カウィール1世
複合N 9.14.0.0.0. 711年 石碑 16 祭壇 5               (682-734AD)
複合O 9.15.0.0.0. 731年   --  --
複合P 9.16.0.0.0. 751年 石碑 20 祭壇 8 イキン・チャン・カウィール(734-746~)?
複合Q 9.17.0.0.0. 771年 石碑 22 祭壇 10 ヤシュ・ヌーン・アイーン2世(768-794~)
複合R 9.18.0.0.0. 790年 石碑 24 祭壇 7 

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 (Ubicacion de los Complejos de Piramides Gemelas)

双子のピラミッド複合はティカル以外にはヤシャーでひとつ確認されていて、 ヤシャーのページ で 少し詳しく説明してあります。



最初のピラミッド複合は 672年の 4号神殿の南に作られた複合L で、672年はヌーン・ウホル・チャークがドス・ピラスを追われた年にあたります。 複合L は 4号神殿建設の為に石材が転用されたようで、現在は痕跡を留めるだけで、彫刻の無い石碑 P41と祭壇 P43 が残されているそうです。  ティカルの案内図には普通複合L の記載はなく、アクセスは難しそうです。


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 (Altar 14 y Estela 30, Complejo M, 9.13.0.0.0. 692AD)

次の複合M は 692年のカトゥンを祝ったもので、ハサウ・チャン・カウィール1世がカラクムルに勝利する 3年前、北のグループの西側に作られた ものでした。 その後の サクベ網整備で複合M は放棄されたと考えられ、石碑 30 と祭壇 14 は石碑博物館に展示されています。

祭壇の上面には大きな文字でツォルキン暦の8アハウの文字が刻まれ、石碑は碑文が無く左向きに立った神官が彫られているそうですが、かなり 風化が進んでいます。

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 (Estela 16 y Altar 5, Complejo N, 9.14.0.0.0. 711AD)

711年のカトゥンを祝った複合N もハサウ・チャン・カウィール1世によるもので、これは 4号神殿の南東側に現在も残されています。 写真は 複合N の北の構造物で囲まれた石碑 16 と祭壇 5で、レプリカに置き換えられています。

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        (Estela 16 y Altar 5 en Museo Lítico)

実物の石碑 16 と祭壇 5 は石碑博物館に置かれており、ピラミッド複合にある石造物の中では最も保存状態が良いものです。 残念ながら石碑は床に 寝かせてあり、図像を見辛いのが難点です。 天井に登って上から見れば良いのですが…。 彫られているのは前面だけで、祭礼の衣装で着飾った ハサウ・チャン・カウィール1世と 4文字づつの神聖文字が 3ヶ所あり、9バクトゥン、14カトゥンと暦が刻まれます。

祭壇の方が更に保存状態がよく、上の画像は見易くする為に上下を少し伸ばしてみました。 ティカル王とマーサル王が彫られ、周囲の碑文から、2人で 高貴な女性の骨を掘り出しているところだそうですが、意味は充分解明されていません。


次の 731年のカトゥンの複合O は、Q、R と東から並び、サクベを超えて西側に位置します。 同じくハサウ・チャン・カウィール1世の時代ですが、 どういう訳か石碑と祭壇には彫刻が施されていないそうです。 遺跡にある地図には複合O の表示がありますが、気づかずに素通りでした。

ハサウ・チャン・カウィール1世はティカルに繁栄をもたらし、在位中に3回のカトゥンの変わり目を迎え、平和裏に亡くなったでしょうか。 死後は 1号神殿の地下に埋葬され、 1962年の発掘で数々の副葬品を伴った 墳墓 116 が発見 されています。



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 (La crestería de Templo VI)               (Estela 21 y Altar 9 en frente de Templo VI)

ハサウ・チャン・カウィール1世を継いだのは息子の イキン・チャン・カウィール (在位 734-746~) で、27代王にあたります。 父王の業績を継いで軍事面でも建築面でも大きな功績を遺したよう です。 1号神殿を完成させ父王の葬儀を執り行い、中央アクロポリスの大規模増築や 6号神殿、4号神殿の建設を行ったのもイキン・チャン・カウィールと されます。

6号神殿(写真左)前には 734年の即位を記念した石碑 21 と祭壇 9 (写真右)が置かれ、4分の1 カトゥンの日、9.15.5.0.0. (736年) に奉納 されたようで、祭壇 9 にはカラクムルの捕虜が彫られているようです。 

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 (Parte frontal de Templo IV)               (Estela y Altar lisos en frente de Templo IV)

マヤで最も高い建造物とされる 4号神殿(写真左)もイキン・チャン・カウィールの手になるもので、9.15.10.0.0. (741年) のハーフ・カトゥンの 日に落成されました。 この時代、ティカルでは重要な史実は石碑ではなく、神殿上部を飾った木製建築材に刻まれたようで、4号神殿前に 置かれた石碑と祭壇のセット(写真右)は彫刻がありません。

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                  (Dintel 3 de Templo IV, réplica en MNAE)

4号神殿でハーフ・カトゥンを祝った後、イキン・チャン・カウィールは戦争に出かけ、743-744年にかけて西のエル・ペルーや東のナランホに勝利し、 その模様は 4号神殿のティンテル 3 (写真は首都の国立博物館に置かれたレプリカ)に記されます。 何年に何処に置かれたかわかりませんが、 石碑 5 と祭壇 2 のセットもあり、ここにも同様の軍事的勝利が刻まれているようで、この時代もカラクムルに対して軍事的優位を保っていたようです。


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 (Estela 20 y Altar 8, Complejo P, 9.16.0.0.0. 751AD)

ハサウ・チャン・カウィール1世の3つのピラミッド複合に次ぐものが、北のグループにある複合P 9.16.0.0.0. (751年) で、 石碑 20 と祭壇 8 はイキン・チャン・カウィールによる最後の石造物になります。 石碑 20 にはイキン・チャン・カウィールの姿と カトゥンの終了が刻まれ、祭壇 8 には 748年に捕虜となり生贄にされたホルムルの王が表されます。 石碑も祭壇も比較的良い状態を保っており、首都の国立考古学民俗学博物館に展示されています。



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 (Complejo Q, 9.17.0.0.0. 771AD)           (Complejo R, 9.18.0.0.0. 790AD)
  (Estela 22, Altar 10)                   (Estela 19, Altar 6)

28代王はイキン・チャン・カウィールの息子で短命に終わったようですが、その後をもう一人の息子の ヤシュ・ヌーン・アイーン2世 (在位 768-794~) が継ぎます。

ヤシュ・ヌーン・アイーン2世は 9.17.0.0.0. (771年) の複合Q (写真左)と 9.18.0.0.0. (790年) の複合R (写真右)のふたつの規模の大きな双子の ピラミッド複合を築いており、ティカルは引き続き大きな勢力を保っていたようです。 それぞれのピラミッド複合に石碑と祭壇が残されますが、 風化が激しく、この時代の詳細は語ってくれないようです。

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                  (Yax Nuun Ayiin II dibujado en vaso plicromado)

中央アクロポリスで発掘された彩色壺に 794年の日付と共にヤシュ・ヌーン・アイーン2世が描かれていますが、この壺を最後にこの王の消息は途絶え、 正確な没年は明らかになっていません。

ティカルの古典期終末期  Sala de Tikal
次のカトゥンの切れ目は 9.19.0.0.0. の 810年ですが、この辺りを境にして 「古典期マヤの崩壊」 が起きています。 主要マヤセンターではカラクムルが石碑に、キリグアは神聖文字のベンチで、ピエドラス・ネグラスでは祭壇にそれぞれ 810年が 記録されたのを最後に歴史から姿を消します。 パレンケは土器に書かれた 799年が最後でした。

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  (Estela 24 y Altar 7, Templo III, 9.19.0.0.0. 810AD)

ティカルはと言うと 810年のカトゥンの切れ目では双子のピラミッド複合は作られず、3号神殿の前に石碑 24 と祭壇 7 のセットだけが残されます。  3号神殿の木製ディンテルに刻まれた彫刻と崩れた祭壇と石碑からは、 ヌーン・ウホル・キニチ (在位 ~800AD~) と  「暗い太陽」 (在位 ~810AD~)の名前が浮かび上がり、 3号神殿と 19カトゥンの石碑・祭壇は「暗い太陽」王によるもので、 その父親がヌーン・ウホル・キニチだったと言う事になるようです。


次のカトゥンの切れ目は 10.0.0.0.0. 830年で、カトゥンの切れ目だけでなく 400年単位のバクトゥンの切れ目にあたり、マヤの人々にとっては 特に重要な日付になった筈ですが、「古典期マヤの崩壊」 の時期にあって 10バクトゥンを示すものは限られます。  ペテシュバトゥン地域東にある マチャキラの石碑 7、や チアパス州 トニナの漆喰レリーフなどに 10バクトゥンが記録されますが、 ティカルでは 10バクトゥンを示す記念物は残っていません。


大きなマヤセンターが次々に没落していく中、10.1.0.0.0. 849年のカトゥンに記念物を残すことが出来たのはこれまでの主要センターではなく ウカナルやイシュル といった謂わば周辺のセンターになり、ペテシュバトゥン地域で最後 まで生き残ったセイバルでは 849年に 神殿と石碑が5本 奉納されています。  このセイバルでのカトゥンの祭礼には ティカルの 「宝石カウィール」王 と カラクムル から「チャン・ペット」王も参列したそうで、「古典期マヤの崩壊」によりマヤ社会の勢力図が大きく変わった様子が窺われます。

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  (Estela 11, Gran Plaza, 10.2.0.0.0. 869AD)

3号神殿の「暗い太陽」の後、セイバルで記録された「宝石カウィール」を除いてティカルの様子は知られず、ティカルは低迷していたようですが、 10.2.0.0.0. の 869年のカトゥンではティカルでも石碑 11 が奉納され、グラン・プラサの北側中央に残されています。

石碑に刻まれた王は ハサウ・チャン・カウィール2世 で 695年にカラクムルを破ってティカルの再興を果たした ハサウ・チャン・カウィールの名前を名乗っていますが、この石碑 11 がティカルで最後の 記念物となり、1世紀頃の 初代ヤシュ・エーブ・ショークから数えて 800年にわたるティカル王朝も最後を迎えたようです。

その後 10.3.0.0.0. 889年のセイバルの石碑 20 と 10.4.0.0.0. 909年のトニナのモニュメント 101 を最後に、華やかな王朝文化の古典期マヤは その幕を閉じて、後古典期を迎えることになります。





以上、ティカルの石碑博物館の展示物を中心に、ティカル王朝の変遷を辿ってみました。 ティカルの歴史を知る事でティカル遺跡の重みが増して、 現地を訪れても面白味が倍増するものと思います。 早くまた再訪したくなりました。



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