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MUSEO DE SITIO PALENQUE   パレンケ遺跡博物館
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パレンケ遺跡の麓にパレンケ遺跡博物館があります。 パレンケを一躍有名にした キニチ・ハナブ・パカル1世の翡翠の仮面は首都の国立人類学 博物館に移されていますが、その他の石造彫刻、大型香炉立て、翡翠の装飾品など貴重な出土物が数多く展示されています。 またパカル1世の墓室は 実物大に複製された石棺・蓋で再構成され、間近で確認する事が出来ます。

(訪問日 2013年 1月 18日、2011年 11月 19日、2004年 1月 2日、2001年 1月 2日)  画像
パレンケ遺跡と博物館には4回来ましたが、博物館は来る度に展示物が充実し展示方法も改善され、2011年には奥の部屋に新たに設けられたパカル王の墓室(複製)を 目にする事になりました。 外部のマヤ展示会の為に一部展示物が持ち出されていたのは残念でしたが、ここでしか見られないパレンケ芸術の 傑作が沢山展示されています。 2013年にも持ち出されたままの展示物がありましたが、それだけパレンケの人気が高いと言う事でしょう。

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  (Panel de Bienvenidos)

これは入り口に置かれたパネルで、要約すると :

「 パレンケは古典期(250-900年)に於ける最も重要なマヤセンターのひとつで、チアパス州からタバスコ州にかけての広大な地域を支配した強力な 王朝の首都でした。 その優れた建造物と彫刻の質は特筆され、数多く 残された神聖文字はパレンケの歴史について貴重な情報を提供してくれます。

当博物館では過去1世紀半に及ぶ発掘で見出された品々を建造物毎或いはグループ毎に紹介してあり、その展示からパレンケの人達による祭祀、政治、日常の様子 が概観出来きるものと思います。 博物館の訪問が、世界遺産に登録されたパレンケの理解を深め、その偉大さを実感する一助となればと念じます。」


以下、順を追ってじっくり見ていきましょう。

最初の通路  Primer Pasillo del Museo
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 (Area de Entrada)

博物館の入り口を入ると最初にパレンケの特徴的な大型香炉立てが出迎えてくれます。 香炉立ては通路奥に専門のコーナーがあり、沢山まとめて 展示してあります。

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   (Figurilla del Hombre Pájaro, Edificio 3 del Grupo B)

大型香炉立ての次に通路の中央に展示されているのが鳥の被り物を付けた坐像で、玉座に座っている事からすると王かそれに次ぐ高位の貴族のようです。  グループB の建物3 で発見された墓所1 からの副葬品で、鳥はマヤ地区で良く見かけるヒョウモンシチメンチョウ(写真下)を模したものだそうです。  2011年は外部展示会に持ち出されて不在でしたが、2013年には定位置に戻っていました。

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                            (Pavo Ocelado)


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             (Réplica de Tablero de los Guerreros, Templo 17)
通路の左側の壁に石板があり、これは 神殿 17 正面の彫刻の複製で、オリジナルは カナダの展示会へ持ち出されていました。 パレンケは トニナ と度々戦火を交えており、 この石板には 687年の戦いで敗れたトニナの支配者 2 がキニチ・カン・バラム2世の前に跪く様子が刻まれます。 複製は図像が明瞭でリアルです。

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            (Original de Tablero de los Guerreros, Templo 17)

2013年1月にはオリジナルがカナダの展示会から戻り、複製と差し替えてありました。 複製も見易かったですが、やはり 本物は迫力が違います。

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 (Jambas con inscripción jeroglífica, Templo 18)

更に通路の先、中庭をバックに背の高い石造物が2本ありました。 これは神殿 17 奥の神殿 18 からで、建物は既に崩落していた為、 復元せずに石造物だけ博物館に移されたようです。

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        (Jambas con inscripción jeroglífica, Templo 18)

石碑かと思いましたが、建物を飾った脇柱だそうで、左の柱は高さ 280cm もあります。 文字が明瞭に残り、説明板に内容が解説されていました。  まず 678年のアーカル・モ・ナーブ3世の誕生から始まり、692年と 694年の祭祀儀礼が記され、右の柱に移って、母の ナ・キヌーウについて語られているそうです。

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        (Glifos de estuco, Templo 18)

この漆喰で出来た沢山の神聖文字も神殿 18 からのもので、内部神殿を飾っていた漆喰文字が神殿崩落でバラバラに散らばっていたようです。  現在は文字を写真の通り貼り直してありますが、元の配列と異なり 解読が難しいようです。

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 (Pilastra del Templo 19)

漆喰の神聖文字の横に見事な漆喰彫刻が施された角柱があります。 神殿 18 の隣の 神殿 19 内部を飾った柱で、遺跡には複製が置かれ、オリジナルがここに保存されています。 これは 1998年から始まった神殿 19 の発掘で見出されたもので、比較的 最近の発見です。

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                         (Pilastra del Templo 19)

角柱には二面に漆喰彫刻が残され、写真左の面には天井から床まで赤や青の彩色が当時のまま残ります。 写真右はその右隣になる面で、彩色はかなり 消えてきていますが、明瞭な漆喰彫刻が残されます。

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 (Pilastra del Templo 19)

この神殿 19 の主役は下の玉座に現れるアーカル・モ・ナーブ3世ですが、この角柱に色鮮やかに描かれているのは息子で モ・ナーブ3世を継いだ キニチ・ハナーブ・パカル2世の青年時代の姿であり、即位前の 709、711、714年に行われた祭事が刻まれます。 ハナーブ・パカル2世は モ・ナーブ3世の死後、736-742年頃に即位したと考えられます。
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                        (Pilastra del Templo 19)

彩色が消えかかった面に描かれているのはアーカル・モ・ナーブ3世本人で、王冠を被り正装して2人に貴族にかしずかれています。 とても 写実的なので、肖像を切り出してみました。


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 (Lápida de trono, cara frontal, Templo 19)

神殿 19からは上の角柱近くでアーカル・モ・ナーブ3世の姿が刻まれた玉座も発見されています。 幅 250cm、奥行き 153cm の玉座は、中央に 6名の貴族に囲まれたモ・ナーブ王が描かれ、その左右の部分は神聖文字でびっしり埋め尽くされています。
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   (Lápida de trono, detalle de cara frontal, Templo 19)

中央の図像と左右の文字部分の拡大です。 図像の中央にモ・ナーブ王が座り、左側の貴族から王権の象徴である頭帯を受け取っている場面で、 王の 721年の即位が刻まれます。

一般的にマヤ創世とされる13バクトゥンが始まる 紀元前 3114年より更に古い 紀元前 3309年( 12.10.1.13.2. 9 ik, 5 mol )に パレンケの 神話上の神が即位したという大変興味深い事柄が書かれていて、その神話の延長上にアーカル・モ・ナーブ3世の即位が繋げられます。
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   (Lápida de trono, cara oeste, Templo 19)

玉座の左側面にも図像と神聖文字が並びます。 ここでは全て現実の世界が語られ、玉座の奉納儀礼や、アーカル・モ・ナーブ3世がパレンケの 守護神 GI、GII、GIII 神に捧げる為に3つ神殿を建てた事、神殿 19 がそのひとつで、734年 ( 9.15.2.7.16) に GI 神に捧げられた事等が書き 残されているそうです。



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 (Los gobernantes de Dinastía de Palenque)

これは博物館のパネル展示からパレンケ歴代王の一覧で、即位年と没年が細かく記されていました。

パレンケの王で最も有名なのは碑銘の神殿の墳墓で翡翠の仮面と共に埋葬された キニチ・ハナーブ・パカル1世 (在位 615-683年)と、その息子のカン・バラム2世(在位 684-702年)で、宮殿、碑銘の神殿、十字のグループの神殿など、 パレンケ遺跡観光の中心になる建造物はこれら二人の時代に作られます。

前述の通り 687年にカン・バラム2世はトニナに対する戦争に勝利しますが、カン・バラムの後を継いだ弟の カン・ホイ・チタム2世(在位 702-711年) はトニナの逆襲にあって 711年に捕虜に取られ、パレンケは一時的に低迷期に入ります。

次に即位するのが神殿 18、19 で主役になるアーカル・モ・ナーブ3世(在位 721-736?年)で、カン・ホイ・チタム2世には子供がいなかった為に、 弟の子供のアーカル・モ・ナーブ3世が跡を継いでパレンケの立て直しに当たりました。 つまりアーカル・モ・ナーブ3世は先代、先々代王の 甥で、キニチ・ハナーブ・パカル1世の孫に当たる事になります。


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     (Alfardas, Tempo de la Cruz Foliada)

入り口から真っすぐ伸びる通路の突き当りにあるこの石板は、時代が少し遡ってカン・バラム2世による葉の十字の神殿から。 碑文は上の石板 から下に続きます。

神殿はパレンケ王朝と農業の守護神であるカウィール神に捧げられたもので、上の石版では紀元前 2360年となるカウィール神の神話上の誕生が 刻まれ、下の石板に移り、神殿がカン・バラム2世により 692年に奉納された事と、王の両親がキニチ・ハナーブ・パカル1世とツァクブ・アハウ王妃で ある事が記されているそうです。

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 (Cabeza de estuco, Templo 14)    (Cabeza de estuco, Templo de la Cruz Foliada)

左の漆喰彫刻の頭部は十字のグループの神殿を飾った、カン・バラム2世の肖像で、右は葉の十字の神殿を飾った冥界の神の像だそうです。

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 (Estela 1 en el centro del patio de Museo)

博物館の中央に中庭が設けられ、石碑が1本 ポツンと置かれています。 写真左側が、上で見てきた神殿 17, 18, 19 等からの遺物が並べられた 最初の通路でした。

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 (Estela 1 o la Muerta, Templo de la Cruz)

パレンケでは壁に嵌め込まれる石板が多く石碑はあまり作られませんでしたが、これは数少ない石碑であり、しかも立体的に王が彫られている例外的な石碑です。  王はカン・バラム2世で、692年にあたる、 9.13.0.0.0. のカトゥンの切れ目に十字のグループの広場に奉納されました。 かなり風化が進んでいますが、 大きな頭飾りを付け、手にはコパルを入れた袋を下げています。

大型装飾香炉  Portaincensario de Palenque
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 (Sala de exhibición de los Incensarios)

石造物が並べられた通路の左奥に、パレンケで特徴的な大型の香炉立てが集められたコーナーがあります。 画像正面のパネル右側が十字の神殿から 見つかった4本の香炉立てで、左に太陽の神殿からの4本(写真には3本見えている)、右に葉の十字の神殿からの4本(写真には保護のガラスだけ 見えている)が展示されています。 残りの一面の壁 (パネルの向かい側) には更にグループ 15 からの2本があり、合計14本の展示です。

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 (Portaincensarios, Templo de la Cruz Foliada)

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                         (Portaincensarios, Templo de la Cruz)

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写真上段の3本と中段左の1本が葉の十字の神殿から、中段中央から下段へかけての4本が十字の神殿からの香炉立てです。 展示されたものを見ると もともとの形を保っているように見えますが、こうした香炉は神殿西側の基壇の中に埋め込まれていた為、発掘中の写真を見るとかなり破損しており、 展示品は注意深く修復されたもののようです。

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 (Interpretación de los elementos de portaincensario)

香炉立ては上部の蓋がついた火鉢と 円筒の台座からなり、パネルでそれぞれのパーツについて説明されます。 台座は中空の円筒で、円筒の左右にヒレ状 の張り出しが付けられ、全面に神の像などが複雑に彫刻され彩色を施して仕上げられます。

マヤの信仰では世界は、神々の棲む天界、人々の生活の場の地上界及び死後の世界の地下界に分けられ、太陽は朝 地上に顔を出して天に昇り、夜は 地下界に隠れます。 マヤの人々にとってこの太陽の永遠の運行が非常に重要で、その為に香を焚いて神々に永遠の太陽と 豊かな生活の為の豊穣を 祈る事は欠く事の出来ない祭事であり、パレンケではこうした祈りに用いられたのが装飾大型香炉でした。

台座の上にある火鉢で、植物の樹脂や血液、トウモロコシ等の神々への捧げ物が燃やされ、火や煙の形で軽くなった捧げ物は天の神々に届き、神々は 地上に降りて香炉の中に宿ります。 その為に香炉の円筒は中空になっているそうです。 放血儀礼で得られた血は太陽の永遠の命を、食べ物に捧げられた トウモロコシは人々の生活の豊穣を祈念したもののようです。

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 (Portaincensarios, Templo del Sol)

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                         (Portaincensarios, Grupo 15)

上段の3本と下段左の香炉が太陽の神殿から発掘されたもので、下段の中央と右の2本が太陽の神殿の北側のグループ 15 からの香炉です。

香炉の図像は、地下界から天界へと伸びるマヤの世界樹を表わしていて、中央にパレンケの守護神の GI 神か GIII 神の大きなマスクが配されるのが 一般的で、マスクの下は地下界の表現としてトカゲ、ヘビ、バクなどの姿をした Imix 神のマスクが置かれます。 中央のマスクの上に更に、ジャガー、 コウモリ、ワニ、空想上の人物等の仮面が配され、香炉の上縁部に、小魚を咥えたサギやハゲワシ、カモ、トゥカン等天界の鳥が置かれ、全体でマヤの 世界樹が表現されて空に向かって伸びていきます。 香炉立ての中には中央の仮面が神ではなく 人になっているものもあり、これは祖先の顔を表したもので、 上のグループ 15 の香炉がこれにあたります。

パレンケの円筒型香炉は 500年頃から 850年頃にかけて作られ、時代と共に形式的な発展を遂げていきます。 香炉立てには寿命が与えられ、 20年経つと新しいものに置き換えられ、20年のカトゥンの終わりに 十字神殿のグループ に集められて、丁重に埋葬儀礼を行った後、太陽の沈む西向きに埋納されていったようです。

尚、パレンケの大型香炉は既に100本以上が発掘回収されていて、大きいものは高さ 120cm 重さは 65Kg にもなるようです。

翡翠他の副葬品  Ofrendas funerarias
大型装飾香炉の横に翡翠製品を始めとした副葬品が集められたコーナーがあります。

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 (Réplica de Máscara de Reina Roja y Vasijas ofrendadas, Templo 13)

パレンケ遺跡に入って直ぐ、碑銘の神殿の手前隣に 神殿 13 があり、1994年に墳墓が 発見されていて、遺跡では墓室と空になった石棺を見ることが出来ます。 石棺の中から 辰砂で赤くなった頭骨の周りに緑色の石が散らばった状態で見つかり、 2001年に緑の石を組み合わせて仮面が修復されました。 被葬者は女性で、「赤の女王」の仮面と呼ばれます。

残念ながら実物はカナダの展示会に出展中で、展示されているのは複製でした。 展示ケースがガランとしているより複製でもあって良かったですが、 ちょっと興醒め。 この仮面は翡翠ではなく緑色の孔雀石で出来ていて、実物の写真を見るとくすんだ灰色をしていますが、作られた当時はこの複製 の様に鮮やかな緑色だったのでしょう。  右の円筒壺は同じ石棺に納められていた副葬品です。

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    (Original de Tablero de los Guerreros, Templo 17)

2013年1月にはオリジナルがカナダの展示会から戻っていました。 こちらの方が時代が感じられて迫力がありますが、作られた当時は上のような 鮮やかな緑だったのでしょう。

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   (Sarcófago de Reina Roja, Templo 13)    (Reina Roja cubierta con cinabrio)

左は神殿 13 の赤の女王が収められていた石棺で、現在は石棺のみで中は空ですが、発見当時は副葬品で飾られた女王が全身辰砂を撒かれて 真っ赤な状態でした。 埋葬の写真は 首都の飛行場の写真展にあったものを撮らせて貰いました。

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     (Concha de Spondylus y Silbato en la forma de enano, ofrendas de la tumba de Reina Roja)

左は貴重なウミギク貝、右は小人の形をした呼び子で、共に赤の女王の埋葬の副葬品です。


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(Cinturón ceremonial de Tumba de Reina Roja)     (Mascara funeraria, Templo 18A)

「赤の女王」の仮面は複製でしたが、副葬品の腰飾りは博物館に残されていました、写真左です。 そしてもうひとつ神殿 18-A で発見された 古典期前期のものと思われる腰飾り(写真右)も実物が展示されていました。 両方とも翡翠製です。 腰飾りの下の一対の耳飾りは神殿 18-A の 腰飾りに付随するものです。 神殿 18 は上の方の漆喰成形された神聖文字群の所で触れたように、既に崩壊していて修復されていません。

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        (Ajuar funerario, Templo 18)

神殿 18 からは墳墓が3基発見されており、上の翡翠の腰飾りの他、更に首飾りやペンダントも回収されて博物館に展示されています。
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                (Ajuar funerario, Templo 18)

                そしてこれも神殿 18 の墳墓からの副葬品。

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          (Ajuar funerario, Templo de la Cruz)

       これは翡翠で出来た儀礼用のベストと棒状の胸飾りで、十字の神殿から回収された
       ものです。 遺体は確認されませんが、やはり副葬品だったと考えられています。

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   (Ajuar funerario, Templo 12 de la Calavera)

これは 神殿 12 (髑髏の神殿) から発見された翡翠製品で、博物館の説明文によると 697年の日付とポモナの王の名前が刻まれているようです。 パレンケと ポモナ は同盟国で、 ポモナの碑文にはパレンケの高位の貴族が 751年にポモナを訪問した事が記されているそうです。

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                (Objetos de concha, Templo 18 y Grupo Norte)

翡翠と並んで貝も珍重され、交易でもたらされた貝類は装飾品に加工されました。 展示されているのは神殿 18 と 北のグループ からのもので、小さな貝細工は服に縫い付けられたそうです。

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     (Objetos de concha, Templo 18 y Grupo Norte)


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 (Cerámicas, objetos litícos y vasija de alabastro, Grupo Norte)

これも北のグループからの副葬品で、角型の容器はとても精巧に作られており、カウィール神 GII が彫られた一対のブローチは頭飾りに付けられた ようです。

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        (Diosa lunar, Juego de Pelota) (Fragmento de tablero, Juego de Pelota)

副葬品が集められた所に石造物が少しまとめてありました。 左は 球戯場 近くから 発見された石製の香炉立てで、ヘビに縁どられた年老いた月の女神の中から祖先の顔が覗いているそうです。 右の石彫りの断片も球戯場からで、球戯場で冥界 の勢力と戦った人の頭部だそうで、嘴がコンゴウインコ、冠羽はケツァールです。

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 (Yugo y Hacha Votiva, El Palacio y Grupo XVI)

これは球戯に用いられた防具(ユーゴ)を表わした石造物と、同様に球戯に関連した石斧(アチャ・ボティーバ)で、 エル・タヒン などベラクルス州の湾岸地域に特有の石造物になり、パレンケに於ける湾岸地域からの人々の存在が指摘されます。

パカル大王の葬室(複製)  Sala Tumba de Pakal
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 (Puerta para la Sala de Tumba de Janaab' Pakal I)

翡翠の副葬品が集められたコーナーの一角に、 碑銘の神殿 で発見された キニチ・ ハナーブ・パカル1世 (パカル大王) の葬室 (複製) に通じる入り口があります。 博物館の一番奥まった場所になり、床面を少し掘り下げた所に石棺が 置かれていました。

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 (Reproduccion de Cámara Funeraria de Pakal)

これが実物大に複製された石棺と蓋石で、実物と同じ彫刻が刻まれます。 葬室の壁は厚いガラスで中が覗けるように作ってあり、壁面の彫刻も ガラスに刻まれ、マヤアーチの天井もガラス製です。

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  (Panel de explicación)

葬室を説明するパネルには、「 1952年に発見されて以来 50年に亘って公開されてきたが、保存の為に閉鎖された 」 と書かれていました。  2001年の初めに来た時はもう閉鎖されていましたが、ほんの少し間に合わなかったのでしょうか?   (¬_¬)

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 (Réplica de la Lápida del sarcófago)

葬室の保全の為に公開できないので複製で満足して貰おうと、かなりの予算をかけて作ったようです。 首都の国立人類学博物館にも 複製があり、これは上から見下ろして 横の通路から少し覗くだけですが、ここの複製は石棺の周りを歩いて一周出来ます。 有名な石棺の蓋は真上ではなく 斜め上横から見るので図像が良く見えないのが難点ですが。

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        (Réplica de Tumba de Pakal, MNA)

  これが 国立人類学博物館 で見下ろしたパカル王の墳墓で、 蓋石は後方へずらしてあります。

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 (Escultura de lado frontal del sarcófago)

国立博物館では暗く遠いのでよく見えませんが、王の足元側の石棺壁面には王の両親が刻まれています。

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              (Retratos de los padres de Pakal esculpido en el sarcófago)

               左が父親のカン・モ・ヒッシュ、右が母親のサク・クック女王。

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  (Retratos de los gobernantes anteriores)

               右側面には歴代王3名の肖像が刻まれます。括弧内は在位期間。

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               (Retratos de los padres de Pakal)

               更にその右側、パカル王の頭部側に再度両親の肖像が現れます。

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 (Retratos de los gobernantes)

残る最後の面にはパカル大王本人と、歴代王2名の肖像があります。 両親以外はヨール・イクナル女王だけ2回出てきますが、女王を正当化する目的 でしょうか?

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    (Réplica de Máscara de Pakal, montaje en 1952)     (Réplica de Máscara de Pakal, montaje en 2002)

葬室の出口付近にパカル大王の翡翠の仮面がふたつ展示してありました。 無論両方とも複製品ですが、左が最初に復元した仮面の複製で、右は 2001-2002年 に仮面修復プロジェクトにより細心の注意を払って復元された仮面を元にした複製です。

雑誌 Arqueologia によると 葬室は1980年まで一般公開されていて、その後許可制になり、2003年には特別許可も出なくなって、2008年にこの 博物館の複製が作られたそうです。

その他の石板、他  Más Tableros y demás
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 (Tablero del Palacio, Casa A-D, El Palacio)

パカル大王の葬室を出て、また展示室に戻ります。 博物館に入って最初の通路から 中庭を挟んで向かい側になる展示室です。 パレンケの有名な 石板始め いろいろな出土物が並びます。


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 (Trono de los Subterraneos, El Palacio)

時代の旧いものから順に…。 この玉座は 宮殿 からのもので、台座の側面に刻まれた 文字から 652年にキニチ・ハナーブ・パカル1世に捧げられたものと解読されています。 パカル1世がこの玉座に座り、その前に高位の貴族たちを従えて、 パレンケの政治、行政を執り行っていたと考えられます。 下の画像は玉座の前面と右側面です。

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                  (Trono de los Subterraneos, El Palacio)



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 (Tablero del Palacio, Casa A-D, El Palacio)

これは宮殿の石板と呼ばれる高さ257cm、幅 248cm もある大型の石版で、中央上部に図像がある他は全面神聖文字がびっしり刻まれます。  カン・バラム2世を継いだカン・ホイ・チタム2世が、宮殿の北側に 「家D」 と 「家A」 を繋ぐ北の回廊 「家A-D」 を作り、そこに置かれたのが この宮殿の石板でした。

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 (Tablero del Palacio, Casa A-D, El Palacio)

石板上部中央の図像にはカン・ホイ・チタム2世が、筒型の王冠を持った父親のハナーブ・パカル1世(左)と楯を差し出す母親のツァクブ・アハウ(右) と共に描かれ、カン・ホイ・チタム2世の即位を表わしていますが、即位した 702年にはパカル1世は既に他界しています。

また碑文にはパカル1世からカン・ホイ・チタム2世の時代の出来事に加え、北の回廊「家A-D」が 720年に完成した事が記されているそうですが、  カン・ホイ・チタム2世は 711年にトニナとの戦いに敗れて捕虜に取られており、いろいろ謎を提起してくれる石板です。 (カン・ホイ・チタム2世は トニナへの服従を条件にパレンケへ戻されたと言う説もありますが…。)


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 (Tablero del trono, Templo 21)

カン・ホイ・チタム2世の次のアーカル・モ・ナーブ3世は、博物館に入って最初の通路に置かれた神殿 19 の玉座にその姿が刻まれて いましたが、この玉座もアーカル・モ・ナーブ3世の時代です。

2002年に始まった神殿 21 の発掘調査で 10数個の破片になって発見されたものを繋ぎ合わせて修復してあります。 (神殿 21 は残念ながら公開されていません。)  図像は 736年( 9.15.5.0.0.)に執り行われた儀礼を表わしており、実際の主催者はアーカル・モ・ナーブ3世ですが、図像の中央は既に亡くなったキニチ・ ハナーブ・パカル1世で、左隣がアーカル・モ・ナーブ3世、右隣がウ・パカル王子(次のパカル2世)です。 パカル1世が放血用の長いエイのトゲを右手で モ・ナーブ3世に差し出していて(下の画像)、モ・ナーブ3世とウ・パカル王子はケツァールの羽や紙片に血を浸したものをそれぞれ向かい合った神に 捧げている所だそうです。

パカル1世は 683年に埋葬された後に再生し、パレンケの神話上の王チャワイ・ウ・キッシュ・カンの姿を取っており、この神話上の王 が紀元前 252年にパレンケの3守護神崇拝を始めた事も刻まれているそうです。

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             (Detalle de Tablero del trono, Templo 21)

神殿 19 の玉座西面にアーカル・モ・ナーブ3世がパレンケの守護神 GI、GII、GIII 神に捧げる為に3つ神殿を建てた事が記されていましたが、 神殿 19 以外の神殿はこの神殿 21 と未発掘の神殿 20 に付属する 20A になるようです。


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  (Replica de Tablero y Lapidas, Torre de El Palacio)

神殿 21 の玉座の先は この写真の寂しい展示でした。 と言うのは斜めに立てかけられた2枚の石版と、中央の玉座が複製で、オリジナルは 外部展示会へ貸出し中。 でも 丁度 10日後にグアダラハラの "ROSTROS DE LA DIVINIDAD" で実物に会ってきました。 下の画像がオリジナルです。

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 (Lápida de cautivo “El Orador" y “El Escriba”, Torre de El Palacio)

この石板は大宮殿にある塔の壁面を飾っていたもので、石板に刻まれているのはピエドラス・ネグラスのヨナル・アーク2世の高官であり、 アーカル・モ・ナーブ3世の軍事指導者チャック・スーツが 725年の戦闘で捕えた捕虜です。 石板はそれぞれ”弁士”、”書記”と題されて いて、捕虜は軍人ではなく文官だったのでしょうか。

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 (Tablero de los 96 Glifos, Anexo de la Torre de El Palacio)

これが 96文字の石板と呼ばれる玉座のオリジナルで、パレンケ博物館より明るい場所に置かれていて写真も明瞭に撮れました。  石板はパレンケ晩年の王 クック・バラム2世(764-783年?) により作られた王名表で、キニチ・ハナーブ・パカル1世 (即位 615年) からの歴代の王名 が綴られているそうです。 宮殿の塔近くで発掘された時につるはしで割れてしまいましたが、写真の通り修復されています。 周囲に小さい穴が 開けられいて 玉座の座る部分に据えられていたようです。

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 (Fragmento de Estela de Guerrero con tocado de serpiente)    (Tablero del Bulto (Fragmento), Grupo 16)

グアダラハラの展示会に更にもう2点持ち出されていました。  左は石碑の断片で蛇の頭飾りを被った戦士との説明がありましたが、パレンケの何処から出土したものか、誰が刻まれているのか書かれてい ませんでした。 カン・ホイ・チタム2世のモニュメントに戦士の石板と言うのがあるので、これかもしれません。

右は包みの石板と呼ばれる グループ 16 からの石板の断片です。 パレンケでは カトゥンの変わり目に奉納物を包んだ袋を捧げたようで、 731年のカトゥンの変わり目にアーカル・モ・ナーブ3世が臣下と共に準備をしている様子と 考えられます。
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              (Tablero de K'an Tok, Grupo 16)

グループ 16 からは カン・トックの石板と呼ばれる石彫りが発見されていて、これもパレンケ晩年の王 クック・バラム2世の時代にに作られ、不完全ながら 445年から767年のパレンケの歴史が刻まれている重要な出土物になります。 カナダの展示会には出品されていたようですが、終了後も遺跡博物館には 展示されていませんでした。 画像はカナダの展示会ビデオからキャプチャーさせて貰いました。

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           (Tablero de la Creación, El Palacio)

これも クック・バラム2世の時代のもので、宮殿の塔で発見された創造の石板と呼ばれるものです。 左側は蛇の取っ手の斧を持った貴族、右はチャーク神の仮面を 付けた神のようで、文字には夜の漁師と呼ばれる人物の打ち首が記録されているそうですが、死が創造に繋がるのでしょうか? 

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  (Cabeza de estuco, El Palacio)

漆喰で作られた頭部彫刻が、合わせて6点展示されていました。 全て宮殿を飾った装飾の一部で、パレンケの歴史上の人物を表わしたと 考えられ、当時は鮮やかな彩色が施されていたようです。

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   (Cerámicas de varios lugares de Palenque)

貴族の日常に使用されたと思われる壺、皿の展示があり、タマルの文字のある彩色皿は トウモロコシ料理を貴族に供するのに用いられたようです。  右上の土偶は頭が動くように作られているそうです。

右下の黒色土器は博物館に近い コウモリのグループ で発見された副葬品で、 799年の ハナーブ・パカル王(3世)の即位が刻まれますが、神聖王の称号はなくパレンケの勢力が既に限られたものになっていた事を示します。 これがパレンケ最後の 王の記録であり、長期暦の日付も最後のものとなり、パレンケの歴史再構築の上で重要な遺物になりますが、他の土器と混じって展示してあり、気を付けないと 見落としそうです。


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 (Maqueta de Palacio)

通路を折り返して出口に向かう角に、宮殿を復元した大きな模型が飾られます。 遺跡に残る宮殿も当然かなり修復されていますが、 かなりの部分で屋根が崩れており、ここで当時の姿を確認する事が出来ます。

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 (Cabezas de estuco en representacion de Dios Solar, Palacio)     (Tableritos, Subterráneos del Palacio)

左のふたつの漆喰製の頭部は宮殿からのもので、額に太陽を表わすキンの文字がある事から太陽の神を表わしたものになります。 右は宮殿地下で 発見された小さな石板で、パカル大王が 654年に行った行事が記され、ベンチの支えか、壁面装飾の一部だったようです。

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 (Escritura en estuco, Grupo XVI)          (Escrituras en piedra, Palacio)

これは文字の断片で、左の漆喰製の文字は グループ 16 で見つかった 「火の縁」 を表わすマヤ文字で、マヤ全体で唯一ここだけで見つかっている 文字だそうです。 中央と右は宮殿からの石板の断片です。 


さてパレンケ博物館も出口が見えてきてもう一息。 最後に遺跡の中央部から少し外れた居住区からの出土物が展示されています。 中央部の北東にあたる グループB、C や 北西にある グループ IV は、高位の貴族の居所だったと考えられています。 グループB、C は何とか訪問可能で遺跡のページで 簡単に紹介してありますが、グループ IV は遺跡入口手前のカーブした上り坂の脇で、全くの密林の中のようです。

マヤでは居住区域に埋葬が行われるのは一般的で、神でもある神聖な王の墓所は別ですが、貴族の居所では 広場の東側で太陽の沈む西を向いた建物から墓所が多く 発見され、展示物はこうした埋葬からの副葬品になるようです。

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   (Portaincensarios, Edificio 3 de Grupo B)

まず グループB からの出土物。 建物の浮彫り装飾2点と香炉立て2点で、2011年 には一部カナダに持ち出されていましたが、2013年は全部揃っていました。 すべて西向きに建てられた広場東側の建物3 からになります。

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   (Medallón de la representación de la Tláloc, Grupo B)

建物3 の葬室の壁を飾った焼き物の飾りです。 蛇の口から現れる中央高原の水の神トラロックが描かれ、丸メガネの上の額にはテオティウアカンの年号を表わす 記号があるそうです。 (記号は左上隅に拡大してあります。) テオティウアカンのマヤ地域への浸透は興味深いテーマで、その影響はパレンケを通り越してティカル やコパンまで見られ、このテーマについては 雨の神チャークのページで少しまとめてあります。
下の香炉立てと共に古典期後期のものになるようですが、テオティウアカンのマヤ地域への浸透は古典期前期の事なので、テオティウアカン後もその文化が長くパレンケ に定着していた事になります。

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   (Sacerdote ataviado como el diso Sol-Jaguar)     (Anciana con tocado de ave)

建物3 の墓所の上に設けられた祭壇には 先祖と交信する儀式に用いられたと考えられる香炉立てが置かれていました。 十字のグループで大量に出土して いる大型香炉立てと使い途は同じで、中空の胴と左右の張り出しは一緒ですが、全く異なる形状に仕上がっています。

左はトラロックの被り物を付けた太陽・ジャガー神で、手足の指先に鉤爪があり、左右の張り出しには蛇が配されています。 右は鳥の被り物を付けた老婆で、 トラロックが描かれた台座に座り、張り出しの蛇の口からは小人が頭を出します。 二体とも下に大地の怪物カウアックを従えていたようです。

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  (Incensario en la forma de nobleza palencana, Grupo C)

グループB の南東にある グループC も居住区で、広場の東側に西向きに高さ 7m のピラミッド 建物2 が建てられ、複数の埋葬が確認されています。 この香炉立ての一部はその副葬品で、パレンケの貴族の容貌がリアルに表わされ、顔には鮮やかなマヤブルーの 彩色が残り、頭飾りと服装は当時の様子を伝ええてくれます。


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          (Portaincensario de piedra, Grupo IV)

最後にサハル (軍事指揮者) のチャック・スーツの居所として知られる グループ IV からの展示物です。  グループ IV は見学コースにはないので、 地図に場所だけ示しました。 入り口の駐車場近くになります。

香炉立ての一部で、石灰岩製のなかなか写実的な石像です。 前面から側面、背面に文字がびっしり刻まれ、608年の Ah Sik'ab と言う神官の任命と、610年の Aj Sul と言うサハルの任命が記録され、Ah Sul が任官の3日後に行ったタバスコ州サンタ・エレナへの攻撃が記されます。 肖像は戦いに特有なトラロックの 被り物を付けている為、サハルの Aj Sul と考えられ、サハルも神官も後の Chak Suutz’(チャック・スーツ) の先祖にあたるようです 。

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  (Tablero de los Esclavos, Grupo IV)

最後に同じくグループ IV 建物1 からの 奴隷の石板。 博物館の出口の手前横に置かれています。 中央に刻まれた王の肖像は 『マヤ遺跡探訪』 の壁紙に 使わせて貰っています。  (このページの背景も。)

中央で奴隷の背中に胡坐をかいた人物が筒型の冠と楯を受取る場面で、碑文は 723年から 729年の戦勝や捕虜の鹵獲など チャック・スーツの偉業と 730年 の建物の落成 (建物1?)が記されており、以前は中央の人物がチャック・スーツだとする見方もありました。 しかしながら図柄はカン・ホイ・チタム2世の 宮殿の石板などと同様の構図で、渡されているものが王権を表わす冠と楯である事から、チャック・スーツが仕えるアーカル・モ・ナーク3世だろうという解釈に 変わっているようです。

(マイケル・コウ著の古代マヤ文明の日本語版 p.187 ではチャック・スーツとなっていましたが、英語版第8版では アーカル・モ・ナーク 3世に直っていました。)



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         (Placa del Museo)

碑文が刻まれた石板や漆喰彫刻が豊富で 情報盛り沢山のパレンケですから、博物館ひとつ説明するのも一苦労です。 これで展示物の紹介は終わりますが、 パレンケの発掘調査は今も続いています。

1999年に内視鏡による調査で神殿 20 内部 から 真っ赤に塗られた墓室が確認されていましたが、2012年についに調査チームが内部に入り Arqueologia #118 2012年 11-12月号のニュース でその模様が紹介されていました。 真っ赤に塗られた墓室は3面の壁にわたり冥界の神9人が鮮やかに描かれていましたが、高さ 18m の 神殿ピラミッドは崩壊が進み 墓室の壁を壊さずに墳墓の調査を続けるのが難しそうです。

墓室の床には壺類や翡翠の装身具などの副葬品が散らばり、パカル大王や赤の女王の墳墓のような石棺は見当たりませんが、古い時代の王墓と考えられ、 現在判明しているパレンケの初代王 クック・バラム1世(431-435年) の埋葬では、と言うのが現在一番支持されている仮説のようです。

1993年に作られた現在のパレンケ博物館には使われていない2階にもまだまだスペースがありそうです。 建造物 20 を含め 今後とも新たな発見が続いて、 博物館の展示も更に充実されていくものと思います。
パレンケ遺跡訪問の折はこの遺跡併設博物館、必見です。



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